Blue Signal
July 2008 vol.119 
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特集[天下に誇る名橋への旅 錦帯橋 山口県岩国市] 岩国の城郭と城下を隔てた錦川
氾濫の川、流されない橋への悲願
架け替えは伝統の技と文化の伝承
錦の清流に姿映す五つのアーチ  錦帯橋と岩国城下
岩国は毛利家の支藩、吉川家13代の城下町。
城山の麓を蛇行して流れる錦川には、
五連のアーチを連ねて錦帯橋が架かる。
江戸時代、西国大名が褒め称えた
天下の名橋の美しさは、周囲の自然を借景に、
330年を経た現在もほとんど何も変わっていない。
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城山の山上にある現在の岩国城から城下を眺める。蛇行する錦川に錦帯橋が架かる。手前が横山地区で、橋を渡った向こうが錦見地区。
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 古い家並みがつづく細い通りを抜けると、目の前が明るく開けた。それは初夏を迎えた岩国のすがすがしい一幅の風景画だ。錦川の清流がみなぎって瀬をつくる。城山の山上には岩国城の白壁が光る。風景の中央、木造の五連のアーチを連ねて錦川をまたいでいるのは、天下の名橋、錦帯橋である。錦帯橋はまったく見事な均整と美しさを見せている。

 岩国出身の作家、宇野千代は「故郷の家」という随筆に「橋の中ほどに立ったとき、川と橋と山が一つの絵になっているのを見る」と書いている。美しさに加え、世界に例のない長大な木造アーチ橋という賛辞もまた岩国の誇りだが、錦帯橋はそれらを誇示するためにつくられたわけではない。優美な名称からは想像できない錦川との苦闘の物語がある。

 岩国藩の歴史は、関ヶ原合戦ののちに始まる。藩祖吉川[きっかわ]広家は毛利元就の孫で、吉川元春の三男。関ヶ原では毛利家は西軍の総大将であり、吉川広家も西軍方として参加したが、あくまで中立の立場をとった。広家の本意は、徳川方に勝機があると見て、毛利家120万石の安泰を願い出て内諾を得ていたが、実際には反故にされた。しかし、広家の軍功で毛利本家は取り潰しにならずに済む。長門と周防を本家に譲り、広家自らは本拠であった出雲から岩国藩3万石(後に6万石)に転封し、築城と城下町の整備にとりかかる。

 錦川と背後にそびえる横山(現城山)。岩国は恰好の要害の地形だった。横山山上から見下ろすとよく分かるが、錦川は横山を囲むように大きく蛇行して流れ、またとない自然の外濠となっている。山陽道の動静も山上からひと目で分かる。広家は横山に天守閣を備えた山城を築く。山城は本来、戦時のものであり、この時代には極めて珍しい例だが、過去に約束を反故にされた経験から、いざ一戦に備えたのだろう。しかし完成5年後には、一国一城令で廃城となる。

 岩国はそもそも防衛機能を重視して整備された町であり、その防衛の要となるのが錦川だった。横山は錦川のすぐ背後に迫り、麓には広い敷地がない。通例なら城郭区域と城下町は一体で計画されるものだが、狭隘な敷地の山麓に家臣全員を住まわせることができない。それゆえ、山麓の横山を郭内として藩主の居館や上級武士の屋敷地とし、城下町は錦川を隔てた対岸の錦見[にしきみ](現岩国地区)に配置せざるを得なかった。錦見には中級武士、下級武士、それに町屋敷などが整備された。現在もこの錦見地区の町割りは藩政時代とほぼ変わらず、各町名も昔のままである。柳井町は柳井商人を呼び寄せた町、そのほかに材木町、塩町、魚屋町などがあり、城下は岩国七町と呼ばれて江戸時代を通じてたいそう賑わった。ただ戦乱期には防衛を担った錦川も平時にあっては、かえって妨げとなった。郭内と城下を自由に往き来できないため、藩政や生活に差し障りが生じるようになった。

 そこで2代目藩主広正時代には幾度となく錦川に架橋を試みたが、架橋する度に落橋もしくは流失したようである。言うまでもなく、橋を架けるというのは莫大な工費と労力をともなう大事業。だからこそ、なんとしても流されない橋を建造しなければならない。それは岩国藩あげての大願となる。
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岩国城は別名、横山城とも呼ばれる。現在の天守閣は1962(昭和37)年に再建されたもので建物は3層4階。天守最上階からは岩国城下と山陽道を眼下に望み、周防灘に浮かぶ島々も遠望できる。
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日本三名橋のひとつ錦帯橋。5つの連なるアーチは優雅な律動美を作る。建造より330年以上の間、この姿をほぼ変えず清流錦川に架かる。
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『御領内図』(1668年)部分。3代藩主広嘉の頃の岩国藩の藩図。中央に蛇行して描かれているのが錦川。郭内の横山地区と城下の錦見地区を分断するように川は流れている。(岩国徴古館蔵)
岩国の城郭と城下を隔てた錦川
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岩国藩五大老の一人、香川家の長屋門につづく白壁塀。長屋門は岩国市で現存する最も古い建物。
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中級武士の屋敷地だった大明小路の風情。通りを抜けると錦帯橋に出る。
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錦帯橋の上より横山地区と城山に天守を見せる岩国城を遠望する。
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錦川上流側から眺めた錦帯橋。川面に映った姿が算盤の玉に似ていることから 「算盤橋」と呼ばれたほか、「凌雲橋」「五竜橋」「帯雲橋」などの異名がある。
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吉川元春肖像。戦国時代の名将毛利元就の二男で、弟の小早川隆景とともに、毛利両川体制で毛利家興隆の基礎を築いた。(吉川史料館蔵)。
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吉川広家肖像。岩国藩の藩祖広家は、岩国城を築城し、新田開発などを推進するなど城下町としての基礎を整備した。(吉川史料館蔵)
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