Blue Signal
May 2008 vol.118 
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特集[天界に通じる架け橋への旅 天橋立 京都府宮津市・与謝郡与謝野町] 神の御寝ませる間に倒れ伏しき天橋立
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国宝雪舟筆「天橋立図」を歩く
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雪舟等楊筆、国宝「天橋立図」(紙本墨画淡彩/室町時代)。落款も印章もないため雪舟の真筆かどうか定かでなかったが、大正時代頃には雪舟最高傑作の一つとされ、1934(昭和9)年に国宝に指定された。描いた場所、視点、依頼主は誰か、画中の書き込みなど謎の多い絵といわれる。(京都国立博物館蔵)
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 雪舟筆「天橋立図」は縦89.4cm、横168.5cm、ほぼ畳一畳ほどの大きさで、極めて克明に天橋立やその周辺の寺社、府中あたりの寺々の甍を描いている。全体は一枚の紙に描かれているのでなく、寸法の異なる20枚の紙を貼りあわせていることから本作前の下絵であると考えられている。描いたのは1501(文亀元)年より後の、雪舟82歳以降という説が有力である。

 しかし、それとて定かではない。雪舟は謎が多く、「天橋立図」もまた多くの謎を残している。老齢の雪舟がなぜ天橋立を描いたのか、精緻な写実であるようで現実には描けない鳥瞰的な視線でどうして描けたのか。なぜ落款も印章もないのか、誰のために描いたのか。そうした多くの謎が研究者の探究心を駆り立てている。ただ、確かなことは時代のようすをつぶさに教えてくれる貴重な史料であること。そして、「禅僧」が初めて中国風ではない日本的な美意識で日本の風景を描いた、日本の水墨山水画という画期性である。

 もちろん雪舟はただ風景を描いたわけではない。天橋立という神秘性や神仏の聖地の総体としての風景の奥底に漂っている精神を「天橋立図」のなかに描いているのだという。その一方、画中には23カ所の書き込みがあり、これがどういう意図なのかは、やはり定かでない。当時現存していたはずの描かれていない寺もある。描いたものと描かれなかったものがあって、謎は晴れない。

 雪舟がテーマとしたのは、おそらく筆致からして天橋立、智恩寺、丹後一宮である籠神社、そして背後の山頂に立つ成相寺だろう。画面の中央には天橋立が横たわり、切戸を隔てて名刹の智恩寺の文殊堂と、境内には多宝塔、石仏まで細かく描き込んでいる。一宮として丹後の国生み神話に関わる籠神社をひときわ大きく、さらに古代から観音霊場として多くの人々の尊崇を集める修験の本拠地である成相寺も写実的に描いている。雪舟はとくに重要とするかのように、それらのどれにも朱色をつけている。ただ不思議なことに、智恩寺だけは名称の書き込みがなされていない。それはどういう理由なのか、まだ確かな説はない。

 「天橋立図」にはこのように不合理な点が多い。画面の手前に描かれている栗田半島と、その右手にある冠島と沓島が不自然なのだ。栗田半島から描いたとすると、沖合の2つの島は見えず、位置も不自然だ。この謎を明らかにしたのは郷土史家の中嶋利雄氏(故人)である。中嶋説は、雪舟は天橋立の北の根元辺りから栗田半島と2つの島を描き、その図を反転して描いたとする。それでも島の位置は近すぎるが、それは天橋立の神話性に欠かせない意味があるので雪舟はあえて画中に収めたと推察する。そして雪舟は、「雪舟観」だけから描いたのではなく、数カ所から天橋立を描いたと説く。現在はこの中嶋説が定説となっている。中嶋氏は、天橋立をどう見るかという視点にこだわり、教職の傍ら天橋立にかかわる史実と意味を徹底して追求した人物である。

 「歴史は、未来のために過去を学ぶこと」と、中嶋氏は常々語っていたという 。それは、天橋立の景観を通じて丹後半島の古代から連綿とつながる歴史や文化を再認識するということだろう。天橋立を歩いてみると、白い砂浜の松原や古格な寺社の建物もひときわ味わい深く見えるに違いない。
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本格的な禅宗様式の智恩寺の山門。寺伝では延喜年間(901〜923年)の創建の古刹で本堂の扁額は後醍醐天皇から賜った。「切戸の文殊」「久世戸の文殊」とも呼ばれ、日本三文殊の一つに数えられる。
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宮津市の郷土史家、中嶋利雄氏は「天橋立図」のなかで手前に描かれている栗田半島の山並みに疑問を抱き「反転説」を唱えた。天橋立側から見た栗田半島を描いて、それを反転させて描いたことを実証し、現在ではその説がほぼ定説とされる。
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成相寺の開山は704(慶雲元)年。平安時代後期には『梁塵秘抄』にも登場する名刹で、西国三十三所観音霊場の一つ。「天橋立図」でも朱色で着色されている。
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「成相寺参詣曼荼羅」。画面上半分が成相寺の境内でその中央には仁王門・礼堂・本堂が並ぶ。下には参道、さらに籠神社、天橋立、智恩寺が配され、栗田半島と冠島・沓島も描かれている。(成相寺蔵)
国宝雪舟筆「天橋立図」を歩く
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「雪舟自画像」(模本/室町時代)。款記によると71歳の時の自画像。雪舟は備中赤松付近(岡山県総社市)の生まれの禅僧。京都で絵を学び、山口県の大内氏の庇護を受けて遣明船で中国に渡り水墨画を修業。残された史料が少なく、謎が多い。「天橋立図」を描いた歳は晩年とする説や円熟期とする説もあるが、一般的には82歳以降とされている。(藤田美術館蔵)
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智恩寺の境内にある多宝塔は1501(文亀元)年に落成。文殊堂は優美な宝形造で、知恵の文殊様として多くの参拝者で賑わう。
 
参考図書:『雪舟天橋立図の世界展』図録/宮津市歴史資料館、『天橋立展』図録/宮津市教育委員会、『中嶋利雄著作集 天橋立編』中嶋利雄著作集刊行会、 『国宝と歴史の旅 11 「天橋立図」を旅する』朝日新聞社
 
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