Blue Signal
May 2008 vol.118 
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特集[天界に通じる架け橋への旅 天橋立 京都府宮津市・与謝郡与謝野町] 神の御寝ませる間に倒れ伏しき天橋立
和歌に詠まれた平安の都人の憧憬
国宝雪舟筆「天橋立図」を歩く
日本の文化景観の原点  天橋立
日本三景の一つとして親しまれる
天下の偉観、天橋立。
海上に浮かぶ白砂青松の架け橋は、
古代の神話を秘めた聖地である。
平安時代には都人の理想の風景と憧憬され、
和歌に詠まれ、あまたの絵に描かれた。
繊細で雅な日本的なる美意識を育んだ風景は
日本の文化景観の原点ともいわれる。
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天橋立創造の神話をいまに伝える丹後一宮・籠神社。もともとの祭神は天照大神と豊受大神だったが、現在の伊勢神宮に遷られたことから「元伊勢籠神社」ともいう。
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 蒼い海を2つに割いて、青い松並木と美しい白砂の浜が長々とつづく。距離にして3.6km。西側は阿蘇海[あそかい]、東側は与謝海[よさのうみ](宮津湾)、この2つの海を優美な姿で横たえて隔てている天橋立はまるで海上の架け橋であり、その景観は高所から眺めるといっそう際立って見える。神の創造物としても不思議ではない。

 日本を代表する自然景観であることはいうまでもないが、天橋立が「日本三景」の一つとされたのは江戸時代である。林羅山の子、春斎が『日本国事跡考[にほんこくじせきこう]』のなかで松島、厳島とともに天橋立を「三処奇観たり」と記し、後に儒学者、貝原益軒[えきけん]の紀行記『己巳紀行[きしきこう]』のなかで初めて「日本三景」という表現が登場した。そこで益軒は、天橋立について次のように紹介している。

 府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、「此坂中より天橋立、切戸の文殊、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宣[うべ]也…」。ちょうど庶民の間でも旅行が流行しはじめた頃で、この紀行文はある種観光のための名勝案内本のようなものでもあったようだ。これによって、「日本三景」という形容で天橋立が広く世に紹介されることとなった。しかし、そもそもは天橋立一帯の景観は、記紀神話の時代から語り伝えられ、日本の国生みに深くかかわる神域であった。

 丹後国には神話や古代からの伝承が数多く残っている。中国の正史『史記』に記されている徐福の渡来伝説は、稲作や鋳鉄、医学、機織などの技術を古代丹後国にもたらしたことを伝えている。『丹後国風土記』(奈良時代)逸文[いつぶん]には、浦嶋伝説、天女羽衣伝説など、この世と異界(神仙界)とをつなぐ物語が記され、そして天橋立もまた、天上の神々と地上の人間界をつなぐ架け橋であると記す。

 逸文を要約すると、海上に横たわっている天橋立は神世には天に向かって直立していたという。与謝[よさ]の郡[こおり]に速石[はやし]という里があり、この里の海に長く大きな前[さき]があり、その先を天の椅立[はしだて]と名づけ、後を久志[くし]の濱と名づける。それは、国を創りし大神、伊射奈藝命が天に通うために立てた椅子[はしご]で、ゆえに天椅立というのだ説く。その椅子が、神が居眠りしている間に海上に倒れてしまったという。古代人の想像力はじつに壮大である。

 その逸文によると天橋立とは先の部分をいう。根元は久志(備[び])の濱で、ここに元伊勢を名乗る籠[この]神社がある。元伊勢とは伊勢神宮がもともとあった場所という意味で、籠神社の祭神は天孫族の彦火明命[ひこほあかりのみこと](海幸彦)。神社の名の由来は社伝によると、竹で編んだ籠舟に乗って、命は海の彼方(常世、龍宮)に行かれたという故事にちなんで「籠宮」という。この彦火明命を始祖とするのが籠神社の神職を司る海部[あまべ]氏である。海部氏の系図は現存する日本最古の系図として国宝に指定されている。現在の宮司は82代で、始祖はおよそ二千年前にさかのぼる。

 海部氏は、海上を自在に往き来した航海・水軍・漁猟を業とし、農耕をもたらした。それらを考えあわせると単に自然の奇観というのでなく、天橋立はこの国の成り立ちにかかわる風景、つまり日本の原風景だといえるのかもしれない。
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籠神社本殿。社殿は伊勢神宮の唯一神明造とほぼ同様の造り。古来より30年ごとに造り替える習わしで、古儀は昔のままに伝えられている。
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籠神社本殿正面。丹波国の創造主で海部氏の始祖である彦火明命を主神に祀る。
イメージ 高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉[すえたま]。伊勢神宮御正殿と籠神社以外に見られないもので社格の高さを象徴している。日本神社建築史上極めて貴重なものとされている。
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丹後国分寺跡より天橋立を望む。奈良時代、阿蘇海に面していたなだらかな丘陵地に国分寺が建立され、国府が置かれたとすれば丹後国の政治・文化の中心であったであろう。ここから眺める天橋立は横真一文字の景観。
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大内峠から望む夜明けを迎える天橋立。横真一文字に見えることから「一字観」と呼ばれる。現在では傘松公園からの股覗きが一般的だが、元来はここから眺め、天地が逆転する景色を楽しんだ。
神の御寝ませる間に倒れ伏しき天橋立
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「籠名神社祝部海部直等之氏系図」(貞観年中書写、国宝)。彦火明命を始祖として籠神社の神職を司る海部氏の系図。系図は稲荷山鉄剣銘とよく似た様式で、縦一本に記した堅系図の最も古い形を伝えている。 イメージ
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海部直伝世鏡の「邊津鏡」(上)、「息津鏡」(下)。海部氏の神宝で、邊津鏡は2050年ほど前の前漢時代、息津鏡は1950年ほど前の後漢時代のものといわれる。
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籠神社の奥宮である真名井神社境内にある磐座[いわくら]西座。主神は天照大神。ここに日本の国生みを行った伊射奈藝命、伊射奈美命の二神が降臨し、天橋立を創造したと伝えられている。
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真名井の御神水。豊受大神の御霊は天の真名井の水との秘伝があり、この湧き水は霊験あらたかな神水。
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