Blue Signal
May 2008 vol.118 
特集
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うたびとの歳時記
鉄道に生きる
探訪 鉄道遺産
うたびとの歳時記 photo
豊かな芳香とともに
花房を優雅に垂らせ、咲き競う藤の花。
風に揺れるその姿は藤波と呼ばれ、
古くから多くの詩歌や文学に登場する。
江戸俳諧中興の祖として名高い
与謝蕪村の句とともに
日本人に愛された藤の歴史をひもといてみた。
鮮明な描写で、美の世界を詠う
与謝蕪村は、1716(享保元)年、摂津国東成郡毛馬[けま]村(現大阪市都島区毛馬町)に生まれた。生い立ちについては諸説があり、本姓も谷口とも谷ともいわれ定かではない。与謝姓は、母親の出身地京都丹後の地名にちなんだとも考えられている。謎に包まれた出自ではあるが、門人へ宛てた手紙の中では、1777(安永6)年に発表した自作の俳諧連作詩篇「春風馬堤曲[しゅんぷうばていきょく]」について、「馬堤は毛馬塘[つつみ]なり、即ち余が故園なり」と記し、毛馬村への郷愁をにじませている。少年期に母を亡くし家も失った蕪村は、仏門に入った後、20歳の頃毛馬を出て江戸に下り、早野巴人[はじん]の門弟となって俳諧の道を志す。しかし、27歳で師の逝去にあい、江戸を離れ関東・東北地方を巡歴する。その間の1744(寛保4)年には、処女選集となる『歳旦帖[さいたんじょう]』を出版。この中で、宰鳥[さいちょう]の号を改め初めて蕪村の俳号を用いた。10年にも及ぶ放浪の旅の後、蕪村は京都に居を結ぶ。以降、68歳で往生を遂げるまで京に定住し、多面的な才能を開花させていった。

 芭蕉、一茶と並び、近世俳諧史に偉大な足跡を残した蕪村は、同時に優れた画人であり、俳諧と絵画をつなぐ「俳画」の創始者でもあった。句作においても絵画的な美を構築し、鮮明な印象の発句を多く残している。月の光に映える藤のあでやかさを詠った冒頭の句にも、蕪村独自の風景描写が感じ取れる。
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玉川春日神社境内に立つ「野田の藤跡」の碑。「ノダフジ」の名は、1911(明治44)年、植物学者の牧野富太郎博士がこの地の藤を観察し、「ヤマフジ」とは異なる独立種として命名したことに由来する。
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『藤伝記絵巻‐第三巻』に描かれている「秀吉ふじ見物の図」。花盛りの頃に名所野田を訪れた秀吉は、藤の木の傍らにある庵で茶会を催したと伝えられる。(玉川春日神社蔵)
月に遠くおぼゆる藤の色香か  蕪村
多様な領域で存在感を示す
 晩春から初夏にかけ、紫や白の可憐な花を房状に垂れさせて咲く藤。日本各地の山野に自生し、観賞用としては藤棚を作って栽培されるつる性の落葉灌木である。優雅な藤房は古くから賞美され、『万葉集』(759年)に27首の歌が詠まれている他、平安時代の随筆『枕草子』をはじめとする著名な古典にも描かれている。また、舞踊や大津絵の藤娘、紋所の下藤[さがりふじ]など、日本文化と深く関わりながら生活のさまざまな場面に登場してきた。平安時代までは、つる草一般に現在の「藤」という漢字をあてていたとされる。花の印象からは意外なほどの強靱さも併せ持ち、つるは縄の役目を果たし、椅子や籠などの家具にも利用された。つるの皮の繊維からは布が織られ、かつて藤衣[ふじごろも]は庶民の着物の代表でもあった。さらに、垂れ下がる花の姿が稲穂のように見えることから、豊作を祈る神聖な木とされ、農事とも関わっている。農作業が始まる卯月八日(旧暦4月8日)には、山から採ってきた花を竿の先に付けて庭先に立てる「花折[はなおり]節供」と呼ばれる風習もあったという。このように、自然暦としての側面も持ちながら、藤は日本の風土に根ざした身近な植物として存在していた。
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時代を越えて咲く郷土の花
 日本の固有種としての藤には、「ノダフジ」と「ヤマフジ」の2種がある。単に藤といえばノダフジをさし、日本の藤の代名詞となっている。「ノダ」とは、現在の大阪市福島区野田、古くは野田村と呼ばれた地名に由来する。低湿地帯であったこの地に、上流から土砂とともに流れてきた藤の木が、たまたま根づいたのがノダフジの起こり。豊かな水と陽光、温順な気候に恵まれた周辺地域には、松などの大木に絡みつきながら、野生の藤が一面に群生していたという。野田の原風景ともいえる当時のようすは、〈難波かた野田の細江を見渡せば藤波かかる花の浮橋〉という西園寺公経[さいおんじきんつね](1171〜1244年)の歌に詠まれている。

 ノダフジの歴史は、玉川春日神社総代として、代々ノダフジを守りつづけてきた藤家の9代目当主が記した『藤伝記』によって今に伝わっている。1594(文禄3)年、天下人であった豊臣秀吉が藤見に訪れたとの伝承も残る。18代目にあたる藤三郎さんによると、秀吉の遊覧をきっかけに、ノダフジの人気は最盛期を迎えたという。花の名所として「吉野の桜、野田の藤」と謳われたのもこの頃である。

 時代は移り、戦火や災害などによりノダフジは次第に姿を消す。しかし、住民たちの郷土の花への思い強く、地道な植樹活動によって1995(平成7)年には区の花として指定。今、再び地域を藤の名所にしようという気運が高まっている。いにしえの人々を魅了した花は、かつてとは趣を変えた街の中で蘇ろうとしている。
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