Blue Signal
November 2007 vol.115 
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特集[神威が隠[こも]る聖地への旅 熊野] 神仏が習合する熊野信仰
救いの巡礼道中辺路を行く
現世利益と浄土の熊野三山
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熊野参詣道には、紀伊路(中辺路)、伊勢路のほかに、より険しい高野山から果無山脈を越えて本宮に至る「小辺路」、吉野から本宮に向かう「大峰奥駈道」、また田辺から中辺路と分かれて海岸に沿って新宮に向かう「大辺路」がある。
王子は熊野権現の御子神を祀った摂社で、参拝者は王子に拝礼しながら熊野三山に向かった。参詣道の道程途中には王子が点在し、大阪から熊野にかけて100以上もの王子があったとされる。「九十九王子」とはその数の多さを表わしている。
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熊野への巡礼の道はいくつかある。代表的なコースは、紀伊半島を東から辿る伊勢路と紀伊半島の西を海沿いに南下し、田辺から中辺路[なかへち]を通って本宮に向かう紀伊路だ。平安時代の熊野御幸が利用したのは紀伊路である。大勢の従者を引き連れた上皇一行は、都から往復約600kmの行程を20日から1カ月を要して御幸した。

後白河上皇が編纂したとされる『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』にこんな歌がある。「くまのへ参らむと思えども 徒歩[かち]より参れば道とをし すぐれて山きびし 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ はねたべ若王子」。あまりに遠く厳しい道程に、願わくば空を飛んでいきたいものだというほどの難行苦行だったようだ。後鳥羽上皇の御幸に同行した歌人、藤原定家も繰り返し嘆いている。「嶮難[けんなん]遠路 暁より食せず 無力極めて術なし」「終日嶮岨[けんそ]を越す 心中は夢の如し」(後鳥羽院熊野御幸記)。

京を発ち、船で淀川を下り、天満、堺、湯浅、御坊などを経て、田辺に至る。途中には「九十九王子」といういくつもの遥拝所があり、そこに立ち寄って経を読み、拝礼しながら進む。王子は熊野三山の摂社で、九十九は数の多さを表わしている。田辺は「口熊野」といわれ、紀伊路はここで海岸線をそのまま進む大辺路と、山に分け入っていく中辺路に分かれる。浜の潮水で禊[みそぎ](潮垢離[しおごり])をし、出立[でだち]王子に参拝して、稲葉根王子、滝尻王子をめざす。滝尻王子からいよいよ定家も嘆いた険しい山中の道になる。

滝尻王子から本宮までは約40kmの道のりだ。中辺路は滝尻王子からの道で、石を無数に敷きつめた狭くて急な古道は、深い森に包まれ、苔むしていかにも時代の古さを感じさせる。勾配は非常に急だ。尾根まで一気に登る道は、樹木の根が露出していたり、でこぼこの石で歩きづらく、右に折れ左に折れて、見上げると延々と細く急な坂道がつづいている。喘ぎながら一歩一歩、踏みしめて登る。そのうち意識がもうろうとしてくる。とうてい馬が登れるとは思えない。いかに上皇とても御輿で参るわけにはいかないだろう。

巡礼の道は、楽をしてはならない。自ら歩き、難行苦行を経てこそ世俗の業を払い清めることができるのだ。巡礼の道とはそれ自体が道場であり、息も絶え絶えに歩くことが修行なのだ。苦しみの末に尾根に立つと、視界は明るく開け、果無[はてなし]山脈が目の前に長々と横たわっている。明らかにそれは救済の風景だ。道は尾根から尾根へと滝尻王子から16の王子を経てつづき、やがて熊野本宮大社を間近に望む(現在の場所と異なる)伏拝[ふしおがみ]王子に辿り着く。そして、疲労困ぱいの末に本宮の姿を目にした定家はじつに素直に、その胸中を「感涙禁じ難し」であったと書き残している。

伏拝王子から緩やかな地道の坂を下ると熊野本宮はすぐそこだ。現在、熊野古道として残っている道も遠く険しい難路に違いないが、上皇一行が辿った道とすべてが一致しているわけではない。場所によって国道や林道と交わり、すでに廃道になってしまっている道もある。しかし中辺路はここで終わらない。険路はなおつづくのである。
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田辺の出立王子を発ち、会津川に沿っていくつかの王子を過ぎて中辺路を進んでいくと、やがて富田川(岩田川)の河畔にある稲葉根王子に着く。水垢離場があり、巡礼者は川の水で身を清めた。
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1.滝尻王子は王子のなかでももっとも社格が高く、上皇らはここで歌会や神楽を奉納したという。熊野古道中辺路はいよいよここから難路、険路となる。王子社の裏から一気に尾根まで登る狭く急な坂道は、右に左につづら折りに伸びる。
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道の途中に横たわる巨石は山岳修験者たちが再生の儀式に用いたと伝えられる「胎内くぐり」の岩窟。
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2.不寝王子跡を過ぎるあたりまでは、急な長い登り坂がつづく。
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3.山から山へと尾根道を辿っていくと、高原地帯に出る。ここには古くから集落があり、その氏神が高原熊野神社。境内には楠の大木があり、社殿は室町時代の建築様式を伝え、街道筋でもっとも古い神社建造物。高原霧の里の棚田の向こうには、果無山脈の峰々が連なる。
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4.大門王子、十丈王子を過ぎると再び急な坂の登りがつづく。坂が急なゆえに大坂本の名がつく大坂本王子を過ぎると、森閑とした森の中に牛馬に跨がった童子の石像が祀られている。「牛馬童子」は熊野古道のシンボルで、一説では花山法皇の道中の姿だといわれている。
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5.継桜王子は「野中の一方杉」で知られ、境内には樹齢1000年を過ぎた杉の巨木が何本も聳え、その巨木には神威を感じる。神仏分離令の際、伐採されようとした巨木を守ったのが南方熊楠であった。
救いの巡礼道中辺路を行く
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6.発心門王子は要になる五大王子の一つで、ここから先が本宮大社の聖域となり、本宮への入り口。
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7.水呑王子を経て伏拝王子。ここから熊野の山並みを通して本宮の森が見える。後白河上皇の「熊野御幸」に同行した藤原定家が「感涙禁じ難し」と語ったとされるのがこの場所だ。王子の傍らには熊野詣途中の和泉式部ゆかりの供養塔がある。
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8.中辺路も三軒茶屋跡まで来ると本宮までおよそ小一時間。三軒茶屋で中辺路は、高野山から果無山脈を越えて来る小辺路と合流する。
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9.本宮のすぐ裏手にある祓戸(祓所)王子。この場所で長旅の埃や汚れなどを祓い清めたことから祓所[はらいど]と呼ばれている。
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10.赤木越の終点である古湯、湯の峰温泉にある「湯峰王子」。巡礼者はここで身を浄める湯垢離とともに疲れを癒した。
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