Blue Signal
November 2007 vol.115 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
探訪 鉄道遺産
Essay 出会いの旅
高城 修三
小説家。1947年、香川県高松市に生れる。京都大学文学部卒業。1977年、『榧の木祭り』により新潮新人賞受賞。翌年、同作品により第七十八回芥川賞受賞。その後、作家活動に入る。1990年代より、日本古代史および連歌に傾注し、2002年よりインターネット上で「高城修三の連歌会」主宰。主な著作に『糺の森』『紫の歌』『京都伝説の風景』『大和は邪馬台国である』『紀年を解読する』『百歌繚乱』『可能性としての連歌』『神武東征』などがある。
鉄道駅に名を残した男
この夏、テレビの取材で山田方谷[ほうこく]の故地をめぐった。いずれも高梁[たかはし]川の流域にあって、中国山地の深い山々に埋もれている。

方谷は幕末の陽明学者にして稀代の財政家であったが、その偉大な業績にもかかわらず、地元の人や研究家を除いて、方谷の名を知る人は少ない。

一八〇五年、備中松山藩西方[にしかた]村(高梁市中井町)に生まれた方谷は、かつて武家であった山田家の再興を願う両親の期待を担って、五歳から隣の新見藩の儒学者のもとで朱子学を習う。しかし、十四歳で母を、翌年には父も喪ったために学業を断念、帰郷して家業を継がねばならなかった。それでも学問への思いを断ち切れなかった方谷は、二十三歳のとき、妻子を残し、家業を捨てて京都遊学におもむく。

二年後に帰郷した方谷は、藩主板倉勝職[かつつね]から、思いがけず士分に取り立てられ、名字帯刀を許される。さらに学問を究めんとする方谷は、京都・江戸に遊学し、厳しい学問的彷徨の果てに陽明学にたどりつく。帰藩した方谷は藩校有終館の学頭に任ぜられる。三十二歳であった。
身分制の強固な封建社会においては異例の出世である。だが、方谷がその真骨頂を発揮するのは、隠居を決意した四十五歳のときからである。子のなかった勝職が桑名藩松平家から養子に迎えた新藩主勝静[かつきよ](松平定信の孫)に、突然、藩の元締役・吟味役(財政責任者)を命じられたのである。

松山藩は石高五万石にもかかわらず実高は二万石弱、しかも譜代大名の格式もあって出費がかさみ、十万両もの負債を抱えていた。そんな破産寸前の財政立て直しを命ぜられた方谷は、陽明学の真髄を実践して誠を尽くした。藩財政の実情を債権者に公開して長期の返済計画を提示し、また自ら範を示して山田家の家計も公開した。倹約令はもちろんのこと、殖産興業を奨励して備中鍬などの特産品を開発し藩の専売とした。今日の企業再生にも通ずる斬新な手法であった。信用を無くしていた藩札を領民の眼前でことごとく焼き捨てるパフォーマンスもした。

その結果、藩政改革に着手して十年足らずのうちに負債を完済、新たに十万両の蓄財をするまでになったのである。江戸時代における最も成功した藩政改革といえよう。

世は黒船来襲の幕末動乱時代である。方谷は財政再建と共に、西洋式軍備を整え、農兵制を採用し、領内の要害の地に藩士の移住計画を進めた。これらは高杉晋作の騎兵隊や明治政府の屯田兵を先取りした画期的な政策であった。方谷自身も、高梁川の峡谷(長瀬)に率先して移住した。この地では、のちに戊辰戦争で名を馳せる長岡藩士河井継之助が弟子入りしている。
方谷の藩政改革の成功を背に、藩主勝静は最後の将軍徳川慶喜のもとで老中に就任する。しかし、それがあだとなって松山藩は朝敵となり、備前岡山藩の武装解除を受ける。維新後、方谷は、その財政的手腕を知る明治政府から出仕を請われるも、それに応じず、母の故郷小阪部[おさかべ](大佐町)に居を移し、塾を開いて後進の教育に専念、一八七七年、七十三歳で永眠した。

方谷が藩政改革を担った二十年間、松山藩には一度も一揆がなく、領民は方谷を神のごとく慕ったという。それを証するように、小阪部には高さ五メートルものオベリスク風の遺蹟碑が建ち、山田方谷記念館もつくられている。生地の西方には、父母の墓と共に方谷の墓があり、昔話の挿絵に出てくるような懐かしい山里の一隅に小公園として整備されている。また、松山城下の八重籬[やえがき]神社境内には見事な「方谷山田先生墓碣[ぼけつ]銘」が建立されている。いずれからも、方谷への熱い思いが伝わってくる。

今ひとつ付け加えておかねばならないのは、長瀬の開拓屋敷跡に残された「方谷駅」である。昭和初期に伯備線が開通するにあたって、方谷を慕う人々は、人名を駅名にすることを禁止していた鉄道当局に掛け合い、その名を残したのである。今も、駅のホーム脇には「山田方谷先生旧宅址」の石碑が建っている。
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