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仙ノ山の頂につづく勾配の急な山道を登っていくと、不意に、山の斜面に要塞のような巨大な廃虚が現れた。高さ20m、幅60mの岩盤には大小無数の穴が穿[うが]たれ、岩盤をノミで削って造った長い階段が設けられている。発掘前にはうっそうと茂る雑木や竹林に覆われて谷間に埋もれていた廃虚は、石見銀山が最盛期だった江戸時代初期の「釜屋間歩[かまやまぶ](坑道・鉱区)」と、銀鉱石の選鉱施設の遺構である。
山の稜線に出ると、幾重にも重なる山々の谷間に大森の町並みが見え、その先には日本海が青々と広がっている。世界遺産の石見銀山遺跡は、仙ノ山の鉱山遺跡と、鉱山を経営管理した大森の町、銀を搬出した銀山街道、銀を積み出した港湾を含む一連の銀産業の総体を指して面積は442ha以上にもおよんでいる。稜線から一望する風景がほぼその範囲で、遺跡の全容を知るには歩いて3日は必要だ。しかし、石見銀山遺跡の本当の価値を理解するのには「世界史的な視野が必要です」と、石見銀山資料館館長の仲野さんは話している。
江戸時代に著された『石見銀山旧記』によると、銀山の発見は鎌倉時代末期、「周防国守、大内弘幸が北辰星(北極星)のお告げに導かれて仙ノ山に登ると、自然銀が雪のように露出していた。しかし露出した銀を取り尽くした後は放置された」と記されているが、史実は不明で伝説とする説が有力だ。銀山として開発されたのは1526(大永6)年の室町時代である。博多の商人、神屋寿禎[かみやじゅてい]が仙ノ山の沖合いを航海中、山の相に鉱脈の精気を見つけ、後に博多から呼び寄せた宗旦[そうたん]・慶寿[けいじゅ]という2人の鉱山技師を伴い、山に間歩を拓いて採鉱し、灰吹法[はいふきほう]という技術で銀を精錬した。それが1533(天文2)年であり、以後、飛躍的な増産が始まり、その技術は他の鉱山にも伝えられた。
技術革新をいち早く果たした石見銀山が日本のシルバー・ラッシュの幕を開いた。しかし、この宝の山を巡って、周防の大内、出雲の尼子、安芸の毛利の三氏による激しい争奪戦が展開される。銀山を我がものにすれば莫大な軍事資金が得られるからだ。ちょうどその頃、銅から銀中心の通貨体系に移行した明国では銀の需要が急増し、銀の価値は高まっていた。 そうして明国にもたらされた多量の石見銀の噂は大航海時代のポルトガルやスペインにまで遠く及んだ。大航海時代とは富の新たな発見と交易のための地理上の新発見の時代であったことはいうまでもなく、船先は自ずと東方海上の噂の銀山王国へと向かった。1543(天文12)年に種子島に鉄砲が伝来し、1549(天文18)年にはキリスト教の布教でフランシスコ・ザビエルが日本に来航する。日本がはじめて西欧世界と出会った日本史上のこれらの重大事に石見銀山が深く関わっているというのだ。
ポルトガルの目的は銀の獲得であり、その際、鉄砲と交換した銀が石見銀であったとされる。後に日本にやって来たザビエルの目的もまた布教以外に石見銀山の情報を収集することだったともいわれている。いずれにしても石見銀はその後の南蛮貿易において極めて重要な役割を担い、16世紀ヨーロッパの航海図にも所在が記され、文献にも頻繁に登場する。中世におけるヨーロッパと東アジアとの交易の歴史は石見銀山ぬきにしては語れないのである。仲野館長が「世界史的視野で石見銀山の価値を考えてほしい」と語る真意はそういうことなのだろう。 |
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『ドラード/日本図(1570年影印本)』。ヨーロッパで最初の単独日本図。石見付近にポルトガル語で「R AS MINAS DA PRATA)銀鉱山王国群)」と記載されている。(島根県教育委員会蔵/元版:鹿島出版会) |
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仙ノ山の露頭掘りの跡。銀鉱脈の発見当初は、鉱脈の先端部分が地表に露出していたものを採掘していた。露頭が掘り尽くされると、その鉱脈に沿って地中へと堀進んでいった。 |
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完全品として残る「文禄石州丁銀」。極印から石見銀山産の銀によって製造されたことがわかる。(島根県立古代出雲歴史博物館蔵) |
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銀鉱石「福石」。石見銀山の鉱石で、銀を最も豊富に含む鉱石。この石から精製された銀が世界史に影響を与えた。(個人蔵) |
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石見銀山遺跡出土「灰吹銀」。仙ノ山中腹にある本谷地区から出土したもので、銀80%、鉛15%。灰吹法の中間段階で生成されたもの。(島根県教育委員会蔵) |
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銀を積み出した沖泊の港。毛利氏支配の時代、銀の流通路を守る目的で右手の小高い岬の上に櫛山城を、左手前の山の上には鵜丸城を築いて監視した。 |
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