Blue Signal
September 2007 vol.114 
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大田市駅 駅の風景【大田市駅】
世界遺産と神話の山にいたる町
石見銀山遺跡の世界遺産登録で
一躍脚光を浴びる島根県大田市。
日本海に臨み、中国山地が背後に迫る
世界遺産の町の顔は、銀山だけではない。
山と海、歴史と文化…さまざまに魅力的な
大田の町を歩いた。
歴史が色濃く残る、山陰道の旧市街
日本海に沿って東西に長くのびる島根県は、旧国名に因んで東側を出雲地方、西側を石見地方と呼ぶ。この東西のほぼ国ざかいに位置するのが大田市で、「おおだ」と発音する。江戸時代には、銀の産出で繁栄の絶頂にあった石見銀山大森町への最寄りの宿、また出雲と石見をむすぶ山陰道の主要な宿場として賑わった町だ。

石見銀山は市街地から内陸の中国山地の山懐にある。バスで30分ほどの距離で、大田市は銀山遺跡が世界遺産に登録されて一躍、国内外の注目を集めるようになった。交通の起点となる大田市駅には登録を祝う看板が掲げられ、各商店の店先の手書の貼り紙を見ていると、世界遺産の町の誇りとともに観光誘致への強い期待が伝わってくるようだ。

現在の大田市は、1915(大正4)年に開業した大田市駅を中心に発展した。大正町、昭和町という地名が物語るように比較的新しい町だ。しかし駅前の商店街を過ぎて三瓶川あたりまで行くと町の表情は一転する。旧山陰道に沿って、軒の低い朱色の石州瓦の家々がつづく風情はノスタルジックな歴史的景観だ。古い造りの町家や商家、酒蔵元の白壁土蔵、寺社が並ぶ寺町もある。その昔、家々の軒先が迫るこの街道を出雲へ、銀山へと、人馬がひっきりなく往来した往時の町の賑わいが偲ばれる佇まいだ。
イメージ
かつて宿場町として賑わった旧市街を流れる三瓶川。旧山陰道沿いには風情のある町並みがつづく。
イメージ 三瓶川沿いの丘陵にある大田南八幡宮。創建は鎌倉時代初めといわれ、境内にある六角形の経堂に納まる奉納用の鉄塔は源頼朝が寄進したと伝わる。
イメージ 大田市駅の2番ホームには、日本に残る最古の鋳鉄製門柱があり、今も現役で跨線橋を支えている。
地図
石見銀山への拠点として栄えた大田市。町中に色濃く残る歴史の風情だけでなく、三瓶山をはじめ、美しく雄大な山海の自然も大田の大きな魅力。
石見国のシンボル、国引き神話の“杭”
大田市は神話の山への入り口でもある。町の背後に聳え、町のどこからでもラクダのこぶのようなユニークな姿を眺めることのできる三瓶山(1,126m)は、大田市、というよりも「石見国」のシンボルだ。石見富士とも呼ばれ、出雲国の誕生にまつわる神話の山である。

奈良時代に編纂された『出雲国風土記』の巻頭、国引き神話のなかで、三瓶山は「佐比売山[さひめやま]」の名で登場する。出雲の国の土地が痩せ細ってまだ未完成だった神世の時代に、八束水臣津野命[ヤツカミヅオミヅヌノミコト]が諸国の余った土地を杭に縄をかけて「国来、国来[くにこ、くにこ]」と引き寄せて現在の島根半島をつくったとされている。その時に綱を結わえた杭の一つが大山であり、もう一方の杭が三瓶山である。ちなみに、引っ張った綱は米子市の弓ヶ浜と、出雲市の長浜となった。

三瓶山は10万年前から始まった火山活動で形成され、最近の噴火は約3600年前で活火山に選定されている。溶岩の粘度の強いトロイデ式火山で、そのために釣り鐘状にこんもりと盛り上がった独特の美しい姿をしている。最高峰の男三瓶、そして女三瓶、子三瓶、孫三瓶などの6つの峰が環を描くように連なり、それらを総称して三瓶山と呼んでいる。6つの峰の中央はすり鉢状になっていて室内池[むろのうちいけ]がある。自然の博物館と呼ばれ景観は雄大。山麓には草原のスロープが広がり、夏は放牧、冬はスキー場、近くには三瓶温泉もあり、四季を通じて県内外から大勢の人が三瓶山を訪れる。
浮布池[うきぬののいけ]より三瓶山を望む。三瓶山は『出雲国風土記』において国引き神話の舞台となった山として語り継がれている。一帯は国立公園に指定されており、四季折々に美しい自然の表情を変える。 イメージ
三瓶小豆原埋没林公園では、約3600年前からの三瓶山の噴火活動によって埋没した巨木林の発掘現場が保存されている。 イメージ
その昔多くの人と物が往来した銀山街道。手前側が大森方面で銀山へと至る。平安末期、旅路にあった西行法師もここを歩いたといわれている。 イメージ
江戸時代、街道には道標として一里ごとに松が植えられた。三瓶山、西の原にある定めの松もその一つ。大森銀山代官・大久保長安の植樹と伝えられ、旅人が進む方角を定めたことから名付けられたといわれる。 イメージ
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海岸に残された“神の仮宮”
大田市駅から北へほどなく行くと日本海に出る。海沿いの道を辿れば村々の歴史があり、神話や伝承が残っている。宅野という小さな港町には、江戸時代に北前船の海運とたたら製鉄で栄えた歴史がある。石見銀山で使う鉄道具の供給地であったといわれ、かつては数多くの鍛冶屋が暮らしていた。海運で財を成した豪商の家々が今も残る町並みは、栄華の時を彷彿とさせる。

日本海の波が激しく打ち寄せる魚津海岸には、「静之窟[しずのいわや]」と呼ばれる洞窟がある。万葉集巻二に「大[おお]なむち、少名彦[スクナヒコナ]のいましけむ、志都[しず]の岩屋[いわや]は幾代経[いくよへ]ぬらむ」と詠まれる洞窟は、出雲神の大己貴命[オオナムチノミコト]と少名彦命[スクナヒコナノミコト]の二神が国土経営の際に仮の宮としたとされる。言い伝えでは、江戸初期には洞窟の前には「滝の前千軒」という集落があり、大津波で一瞬にして海中に没したという。海中に突き出た塔状の奇岩、掛戸松島は鎌倉時代に潟湖の水を排水するために、湖と海との境に横たわる丘陵地を7年を要して人の手だけで切り割った工事の名残である。大田市を取り囲む小高い山々には戦国乱世の時代に無数の山城が築かれ、この地の地理的な重要性をうかがい知ることができる。

世界遺産と神の山々、変化に富む海岸線。そしてここで育まれた歴史は、しっかりとこの町に根付いている。
魚津海岸にある静之窟[しずのいわや]は波の寝食でできた海食洞。この洞窟内で大己貴命[オオナムチノミコト]と少名彦命[スクナヒコナノミコト]が国造りの策を練ったという伝説が残る。 イメージ
掛戸松島[かけとまつしま]は鎌倉時代に行われた大規模な開削工事の際、記念として堀り残されたといわれる奇岩。高さ約20mの塔状の岩の上に一本の青松が立つ姿が美しい。 イメージ
石見といえば神楽、石州瓦だが、世界的に知られる石見の工芸が石見根付。根付は今風にいえばストラップの先の留め具で、江戸時代には石見根付師のつくる根付は技巧的で細微かつリアルさで高く評価された。そんな石見根付を再興し、伝統を受け継ぐのが田中俊さん。「石見に生まれ石見で生きる者として、石見根付の伝統を絶やしたくない。石見根付は世界に誇れる芸術ですから」と語る。
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