Blue Signal
May 2007 vol.112 
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うたびとの歳時記
鉄道に生きる
探訪 鉄道遺産
特集[まほろばへの旅 飛鳥・藤原] 悠久の時が流れる万葉の国原
解き明かされる飛鳥の王京
時空を超えて蘇る古代の記憶
倭[やまと]は国のまほろば、
『古事記』に記された豊かな国原[くにはら]で
日本は統一国家への道を歩みはじめる。
国づくりの歴史の扉が開かれたのが飛鳥だ。
『万葉集』にも詠まれた美しい風景を今も残す
飛鳥・藤原には古代と現代をつなぐ入り口がある。
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朝もやの中にけむる奈良盆地。甘樫丘から大和三山を望む。
左から畝傍山、中央遠くに耳成山、右端が香具山。
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東の空が白みはじめると、大和盆地を覆っていた闇がとけはじめ、乳白色の朝霧の海原に浮かぶ島々のように、畝傍山[うねびやま]、耳成山[みみなしやま]、香具山[かぐやま]の大和三山が姿を現す。古代のままの静謐な風景が、夜明けとともに目の前にひろがっていくが、麓の集落はまだ明けやらぬ闇の中で静かに眠っている。

飛鳥を見晴らす甘樫丘[あまかしのおか]に佇むと、日ごと繰り返される自然の営みも特別に見える。頭をよぎるのは国原を愛でる『古事記』の一節だ。「倭[やまと]は 国のまほろば たたなづく 青垣[あおかき] 山ごもれる 倭し美[うるわ]し」。「まほろば」とは豊かで美しいさまを表現する言葉で、眼下に望む飛鳥の風景には国家統一をめざした古代日本の揺籃期の記憶が詰まっている。日本の国家のしくみと文化が形成されていった舞台の中心、大和朝廷の宮都の地であったことを想像すれば、吹き抜ける風、山々の一木一草、道端の石ころさえも歴史が匂いたってくる。

そんな大和の国、青垣の山々に囲まれた飛鳥の国原は、盆地とはいえ平坦な地が広々とつづく奈良県東南部にある。橿原市、桜井市の一部と明日香村全域を含めて飛鳥地方と呼んでいるが、その中心である明日香村は村内のどこを掘っても遺跡が出てくるために、全域が古都保存法・明日香村特別措置法によって保存、管理されている。足を踏み入れると、辺りの風景はたちまち古代の趣に変わる。

「あすか」は「飛鳥」とも「明日香」とも書く。諸説ある語源の一つは、大陸からの渡来人がつけた「安宿」が転訛して「あすか」と呼んだという説だ。宿は定住の住み処を意味し、渡り鳥のように大陸からの長い旅路の末に、ようやく辿り着いた安住の地が「あすか」だった。安住に「明日」を託し明日香になったともいわれるが、はっきりしたことは分からない。ただ史実として確かなことは、4世紀から7世紀頃にかけて、渡来人が飛鳥の地に多く住み着いたこと、そして彼らがもたらしたさまざまな技術や文化の影響を受けながら、飛鳥を舞台に古代日本の歴史が展開していったことである。

飛鳥時代と呼ばれるのは6世紀末から8世紀初頭に及ぶおよそ120年間である。日本の古代史をさぐる手がかりは8世紀初めに編纂された『古事記』と『日本書紀』だが、国の創世が記紀神話の伝承の世界から考古学的にも歴史的にもはっきりするようになるのは古墳時代後期頃とされる。4世紀には大和盆地に初期大和王権が成立していたことは一般的に史実と考えられ、大和朝廷が全国の有力な豪族を平定し、中央集権の統一国家への道を歩み出していた。そんな時代の後につづくのが飛鳥時代である。

新しい時代の扉を開けたのは推古天皇だ。592年に、推古天皇は甘樫丘の麓、飛鳥川そばの豊浦宮[とゆらのみや]で即位する。女帝を補佐して摂政を執り行ったのが厩戸皇子[うまやどのおうじ](後の聖徳太子)、大臣[おおおみ]は蘇我馬子[そがのうまこ]。そしてこの飛鳥の地で繰り広げられた政変、改革はその後の日本の礎となり、ここで育まれた飛鳥、万葉の文化は日本人の精神のよりどころとなる。飛鳥時代とは、いわば日本と、日本人の歴史の序章ともいえる。

その時代性を解き明かす手がかりが土中に眠る数々の遺跡だ。遺跡だけではなく、朝もやの中に見える大和三山の姿も、古代から人びとの尊崇を集め、万葉集にも詠まれた日本の心を今に伝える歴史景観なのである。
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『日本書紀』に記された飛鳥浄御原宮跡伝承地から望む甘樫丘(148m)。
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甘樫丘の北西の麓、飛鳥川の河畔に豊浦寺跡がある。もとは推古天皇が即位した豊浦宮があったといわれ、遷宮の後、蘇我馬子が譲り受け、日本で最初の尼寺といわれる豊浦寺とした。
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飛鳥池工房跡。金、銀、銅、鉄、ガラス、玉などを鋳造した古代の総合工房で、我が国初の貨幣「富本銭[ふほんせん]」も製造された。当時の技術水準の高さがうかがえる。
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飛鳥時代の宮跡と史跡・遺構の位置
悠久の時が流れる万葉の国原
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丸山古墳(畝傍陵墓参考地)。全長310m、後円部の高さは21m。横穴式石室の古墳では最大級という。内部には家形石棺が二つ安置されている。
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甘樫丘の東の麓にある水落遺跡。中大兄皇子が初めて漏刻[ろうこく](水時計)を造った場所と『日本書紀』に記されている。
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山田寺跡。中央に土壇を残すだけだが、法隆寺より半世紀も古い最古の木造建造物連子窓[れんじまど]が創建時のままの姿で発見された。豪壮な伽藍配置の大寺で、本尊だった薬師如来像の仏頭は興福寺に保管されている。
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