Blue Signal
May 2007 vol.112 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
探訪 鉄道遺産
うたびとの歳時記 清流が流れ、エサになるカワニナが棲み、草や木が残る場所が、蛍にとっての好ましい環境とされる。(写真提供:(社)びわこビジターズビューロー)
「腐草為蛍[ふそうほたるとなる]」。
6月半ば、孵化した蛍が光を放ち、
草むれる水辺を飛び交い始める頃を
暦の七十二候ではこう言い表している。
夕闇に揺れるほのかな光は、
古くから日本人を魅了し
多くの物語や歌の題材として描かれてきた。
蕉風の祖として名高い松尾芭蕉の句とともに
蛍と人、自然との関わりの歴史を
ひもといてみた。
※七十二候とは、二十四節気を初候・次候・末候の三候に分割し、ほぼ5日ごとの季節の推移を天候や鳥、植物などの変化によって示したもの。
心とらえる神秘な光
初夏の闇夜を、青白い光を発しながら舞う蛍。幻想的な姿を追って水辺に繰り出す「蛍狩り」の遊びは、古くから夏の風物詩として親しまれ、その風情は浮世絵にも見ることができる。蛍という語の初見は、『日本書紀』(720年)の巻二とされ、奈良時代の歌集『万葉集』には、「蛍なす」が「ほのか」の枕詞として用いられている。また、平安時代の恋歌の題材に好んで詠まれるなど、文学的素材としての一面を持つ。蛍の語源は、「火垂る」「火照る」「星垂る」など諸説あるが、いずれも蛍の特徴である「光」に関連している。

日本には、約45種類の蛍が生息するといわれる。幼虫の時期を清流の中で過ごし、5月下旬〜6月には成虫となって子孫を残すために光り、産卵の後は数日で短い生涯を終える。その中でも代表となるのは、源氏と平家の名を冠する2種類。「源氏」「平家」の名は「源平合戦」からの由来とされ、身体の大きい方を源氏、小さく光の弱い方を平家と呼ぶようになった。その乱舞するさまを「蛍合戦」と言い表わした。
photo
国分山の中腹にある幻住庵。ここでの暮らしぶりや人生観を記した『幻住庵記』は、『奥の細道』と並ぶ俳文の傑作とされている。(写真提供:(社)びわこビジターズビューロー)
photo
最期まで句作への執念を燃やし続けたという芭蕉。1694(元禄7)年10月、51歳の生涯をとじる数日前には、有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を詠んでいる。(蕪村筆 芭蕉翁像/金福寺蔵)
艸[くさ]の葉を落つるより飛ぶ螢かな 芭蕉
近江の風光、人々を“ふるさと”とする
俳聖と仰がれる松尾芭蕉は、1644(寛永21)年伊賀上野に松尾与左衛門の二男として生まれた。幼名を金作、後に宗房[むねふさ]と名乗るようになり、俳号としても用いていた。1662(寛文2)年、19歳で藤堂藩伊賀付侍大将である藤堂良精[よしきよ]に出仕。嫡子良忠(俳号蝉吟[ぜんぎん])の近習[きんじゅ]役となった頃より俳諧の道を歩み、良忠没後は京の北村季吟[きぎん]のもとで貞門俳諧を学んだとされる。1672(寛文12)年には江戸に下り、宗因風の新進俳人として頭角を現すものの、やがて当時の主流であった世俗的な俳諧とは決別。37歳の時に深川の草庵に隠棲し、独自の俳風をめざすこととなった。この草庵には「芭蕉」が生い茂っていたことから、1682(天和2)年に出版された俳諧集『武蔵曲[むさしぶり]』以降、芭蕉を公の号としている。しかし、この年の大火で庵は焼失。その後は一所不在を旨とし、行脚と庵住を繰り返しながら、蕉風俳諧を樹立していった。

一生を旅に生きたといわれる芭蕉は、1684(貞享元)年41歳の秋に『野ざらし紀行』の旅に発つ。その旅の終わりにはじめて近江国大津を訪れた芭蕉は、以降近江の風光をこよなく愛し多くの句に詠むとともに、この地で得た門人たちを生涯の友としたという。近江蕉門の正秀と曲水[きょくすい]に宛てた手紙には、他の書簡にはみられない「旧里[ふるさと]」ということばが使われている。旅に明け暮れた芭蕉にとって、熱心な門人との交流や琵琶湖の比類なき自然は、心やすまる故郷として映っていたのであろう。
このページのトップへ
芭蕉に詠われた湖国の蛍
冒頭の句は、草の葉にとまっていた蛍が地上に落ちる次の瞬間、空中を飛んでいるという一瞬の美を詠っている。芭蕉の小動物への細かな観察眼から生まれたこの句は、俳諧撰集『いつを昔』(1690(元禄3)年刊)に収められているが、句の背景などは定かではない。近江に心惹かれていた芭蕉には、琵琶湖の南端から流れる瀬田川の蛍を詠んだ佳句が多く残る。『猿蓑』(1691(元禄4)年刊)には、凡兆の句とともに「勢田[せた]の蛍見二句」として

 ほたる見や船頭酔ておぼつかな

の句が並び、瀬田川で門弟たちと蛍狩りに興じる芭蕉の姿がうかがえる。

瀬田川周辺の源氏蛍は「石山蛍」と呼ばれ、江戸から明治の頃を最盛期に、何万もの蛍が乱舞する日本有数の名所であったという。その後、水害や河川工事などの影響により、蛍の数は激減。川の右岸、観音霊場として名高い石山寺の辺りに残る「螢谷」という地名に、かつての面影がしのばれる。石山寺には、芭蕉が大津を訪れた際の仮住まいであった芭蕉庵があり、近くには『奥の細道』の旅の翌年、1690(元禄3)年4月から7月まで身を寄せていた幻住庵[げんじゅうあん]など、ゆかりの地が点在する。ある時は清流を見下ろす高台から、また川面に浮かぶ屋形船から、飛び交う蛍に心躍らせたのであろうか。芭蕉が愛した近江の景観は時代とともに姿を変え、今蛍は自然の象徴となって、夏の夜空にかすかな光を描いている。
photo
1688(貞享5)年、湖南を吟行していた芭蕉は、近江八景「瀬田の夕照」で名高い唐橋や瀬田川の蛍を句に残した。(写真提供:(社)びわこビジターズビューロー)
このページのトップへ