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1570(元亀元)年、浄土真宗本願寺派は信長の天下統一の野望に抗い、鉄砲3,000梃で信長を激しく攻撃する。世にいう石山合戦だ。その戦の際、弾薬を真宗信仰の篤い五箇山から本願寺に上納したとされる。五箇山は火薬の原料である塩硝の産地であり、後に五箇山を領地とした加賀藩は、この地を密かに塩硝製造地とした。これが、隠れ里としての運命を背負った五箇山にまつわる歴史である。

それゆえに、この地特有の生活風習や文化が根づき、合掌造り集落という、日本のほかの地方では見られない独特の集落景観として残ったのである。それは単に家々の集合ではない。五箇山の厳しい自然環境の中で生きるための「社会共同体」なのである。箱庭のように見える相倉集落も、改めて俯瞰すると、険しい地形や豪雪という過酷な自然のなかで暮らしていくための、団結する村人らの強い意志を宿してでもいるかのようだ。

集落には人家のほかに、鎮守の森を中心に寺や念仏道場、茅場[かやば]、火葬場、楮[こうぞ]を煮る窯場、水路、雪崩防止のため伐採禁止の雪持林[ゆきもちりん]などの共有施設があり、狭い空間に小さな社会共同体が成立している。その姿が昔と変わらずに残っているところが貴重なのである。

相倉集落にある相念寺の古文書には、村の創始は今から約450年前とあるが、合掌造り集落の形成の時期は定かではない。上梨にある村上家の言い伝えによると、石山合戦の年に建てられたとされるが、現存する最古の建築は17世紀頃と推察されることから、現在のような集落の形が整うのは、加賀藩が塩硝製造を振興した時期だと考えられる。今残っている合掌造りのほとんどは江戸末期から明治時代に建てられたものだが、合掌造りはこの土地の風土と生産に深く関わっている。

村人はじつに合理的に自然と共生してきた。冬は雪深く、水田耕作する土地もない。藩政時代、米の収穫ができない五箇山の年貢は「金納」で、村の経済を支えたのは塩硝、養蚕、和紙、蝋[ろう]や漆などの生産であった。これらの生産力が乏しい土地、厳しい冬を克服し、村の生命線を維持した。そして、合掌造りは総じて大きい。その理由に大家族制度があげられるが、これは制約された土地を合理的に生かす知恵と工夫であり、同時に生産には大きな空間が必要だった。蚕を育てるには大きな空間がいる。硝酸塩を煮詰めて塩硝を造るにも、紙を漉くにも広い空間が必要なのである。

広々した合掌造りのなかに佇むと、家族が協力して作業する様子が目に浮かぶ。共同や協力は家族だけでなく、集落全体を結ぶ強い絆であり、「結(ユイ)」と「合力(コーリャク)」という、信仰的で合理的な相互扶助の制度を育んだ。厳しい環境は、互いに助け合って生きる大切さを人々に教える。困難な問題はみんなが一致協力して解決する。合掌造りの屋根の葺き替えも「結」の仕事。厳しい自然と向き合う、五箇山の暮らしとはそういうものである…と、相倉合掌造り集落は物言わずそう教えているようであった。 |
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白山山系の水を集めて流れる庄川。夏の時期でも水量が豊かで流れが速い。 |
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村上家の「でい」と呼ばれる接客に使った部屋。「奥のでい」には大きく見事な仏壇がある。 |
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村上家は4階層の大型家屋で、一説には石山合戦の際に建てられたと伝わる。 |
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相念寺の住職である、平村の元村長、圖書恒遠[ずしょこうえん]氏。温厚で穏やかな語り口は、五箇山の人々をそのまま代表しているようである。 |
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村上家の当主、忠森[ただもり]氏、御年84歳。村上家400年の歴史の語りとともに、108枚の檜のささらで拍子をとりながら、よく通る声で「こきりこ唄」を聞かせる。 |
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平家の落人伝説を、紋付・袴・白たすきに刀をたばさみ笠を手に勇壮な舞いとともに唄われる麦屋節。「五箇山麦屋まつり」(9月23・24日)。 |
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興国年間(1340〜1345年)に五箇山に伝わったとされる「こきりこ唄」。楽器は鍬金、こきりこ竹、ささらなど、往時のままに今に伝わる。無形文化財として国選定。「こきりこ祭り」(9月25・26日)。 |
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