Blue Signal
September 2004 vol.97 
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特集[五箇山] 五つの「谷間[やま]」の里
厳しい自然に培われた生活文化
念仏を唱えて、合掌造り
豪雪と塩硝[えんしょう]と念仏が育んだ
合掌造りの隠れ里ー越中五箇山。
かつて秘境と呼ばれた深い渓谷の中に、
天に向かって掌を合わす家々。
今も昔と変わらない姿がそこにある。
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道は、蛇行する庄川[しょうがわ]の流れに沿ってつづく。富山と岐阜との県境近く、霊峰・白山の広大な山系に連なる標高1,000m級の山々に分け入ると、谷はいよいよ険しく、深山の気配はますます色濃くなる。そんな山の懐に、まるで外界から姿を隠すようにひっそりと、その小さな集落はあった。

越中五箇山。この名の由来は、上平[かみたいら]村、平[たいら]村、利賀[とが]村という三つの村に、五つの「谷間[やま]」があったことから、いつしか山となり、五箇山と表わすようになったという。ここには、山一つ向こうの白川郷と並んで世界遺産登録の合掌造り集落がある。かつては五箇山の里に数多く点在していたが、昔のままの集落形態をとどめているのは平村の「相倉集落」と上平村の「菅沼集落」の二カ所。相倉集落は山腹の斜面が崩壊した跡地に、菅沼集落は庄川の河岸段丘上に、という地形上の違いはあっても、いずれもわずかな田畑を耕すほどの土地しかない。手狭な土地に、この地方独特の切妻・茅葺きの合掌造り民家が身を寄せ合っている。

相倉集落を小高い場所から見下ろすと、それは日本の農山村の原風景を「箱庭」にしつらえたようである。現代人には心安らぐ風景だが、一方で集落を包み囲む閉ざされた空間は外界との交流を強く拒んでいるようにも見える。それはこの土地の厳しい自然にもいえる。近年まで満足な交通路がなく、冬期には豪雪がすっぽりと集落を覆い尽くし、外界から孤絶する。五箇山はながらく秘境と呼ばれた。そして秘められた集落には、幾代にもわたる隠れ里の物語がある。

「平」という名から連想するのは、源氏の追手から身を隠す平氏の落人伝承だ。しんとした冬の夜長、ぱちぱちはぜる囲炉裏の火を囲んで村人たちが唄う麦屋節[むぎやぶし]は「浪の屋島を遠[と]くのがれきて、薪樵[たきぎか]るちょう深山辺[みやまべ]に。烏帽子狩衣[えぼしかりぎぬ]脱ぎうちすてて、いまは越路の杣屋[そまや]かな…」と、平氏の栄枯盛衰を歌詞とする。屋島の合戦に敗れた後は、着の身着のまま遠く深山に逃げ込み、今は質素に身をやつして越の国(富山)の山中で暮らしている…とでもなろうか。

人里離れた村に身を隠した遠い祖先は、手に持つ弓矢を鋤や鎌に替え、わずかな田畑に麦や麻、稗や桑などを育て、ここを安住の地と定めた。そして一族の安寧と無事を「合掌の祈り」に託し、折々に、都での暮らしを遠く懐かしみ、悲哀切々と唄を口ずさんだのではなかったか。紋付、袴、白たすきに刀をたばさみ、唄に合わせて笠を手に踊る勇壮な舞いは、この集落の来歴をうかがわせる。

しかし土地の歴史は、落人伝説よりずっと以前に遡る。古代以前からの生活の痕跡が認められており、白山信仰が盛んになる8世紀には山岳修験者の行場として小さな村落が開かれたとされる。中世になると、浄土真宗の布教の拠点として門徒が寺や念仏道場を設け、宗教的色彩の強い集落が形成された。そして、世は戦国時代、織田信長と拮抗するほどの勢力を有していた浄土真宗と、この隠れ里にまつわる合掌造りの歴史がある。
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1,000mを超す山々に囲まれ、悠々と流れる庄川の谷間[やま]に、合掌造りの集落がある。
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上平村菅沼集落。冬季には2mを超える積雪となることもある。
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五つの「谷間[やま]」の里
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相倉の合掌造り集落。急峻な山を背後に20棟の合掌造り家屋がある。自然に寄り添った、素朴な生活が営まれている。
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上平村菅沼の合掌造り集落。南側には庄川が大きな曲線を描き、北側には「雪持林[ゆきもちりん]」と呼ばれる雪崩を防ぐための伐採禁止の自然林を戴く。
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平村相倉集落。一番遠くに見える山が、白山信仰の山岳修験行場として開かれた人形山。
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上梨地区にある「白山宮」。由緒によれば、人形山の山頂にあったものを現在の地に移したといわれる。
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相倉集落の雪持林にある「夫婦けやき」。伝説によると、この2本のけやきが雪崩から集落を防いだといわれ、山の神木であり今でも人々から敬慕されている。
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