Blue Signal
July 2004 vol.96 
特集
駅の風景
食歳時記
鉄道に生きる
陶芸のふるさと
特集[萩] 毛利家背水の陣、萩
萩の精神、松下村塾
江戸時代の絵図で、城下町散歩
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萩の御用商人であった菊屋家住宅の白塀と菊屋横丁。菊屋家住宅は、現存する江戸時代の建物としては国内最大の町家。
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萩の町は、いまも100年前の古地図が使える。江戸時代の萩は、外堀で二分されていた。萩城から外堀までの堀内に、上級武士の屋敷が集められ、外堀の東には中・下級武士や豪商が住む城下町が築かれた。外堀の西側は「堀内」という地名が残るように、かつての三の丸にあたる。いまも上級武士の屋敷跡が数多く見られ、堀内のどの道を歩いても重厚な武家屋敷跡が残り、風雪に耐えた味わいのある土塀が続く。

萩ならではの風景の一つに、土塀越しに夏みかんの木が枝を伸ばす姿がある。萩では夏みかんを別名代々[だいだい]という。開花時期まで果実が実ったままで残るため、子孫繁栄の縁起ものというのがその名の由縁。明治維新で武家社会が崩壊し、旧武士たちのため、小幡高政[おばたたかまさ]が士族救済事業として夏みかん栽培を奨励したのが始まりで、この夏みかんが萩の人々を救ったのである。また小幡高政は、吉田松陰が江戸の評定所で死罪を宣告されたとき、長州藩邸から出向いて立ち会った人物としても知られる。

萩城から東へ歩くと、藩主が参勤交代など、城を出入りするときに通る道であった御成道[おなりみち]となる。外堀跡を越えたところで、土塀と長屋門の町並みから一変し、商家の並ぶ呉服町、瓦町などが現れる。呉服町の通りから、菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁と呼ばれる3本の小路が南に通る。一番目を引くのが藩のご用達を務めてきた豪商菊屋の大規模邸宅。菊屋横丁は、「日本の道百選」のひとつにもなっている。

藍場川[あいばがわ]は、中・下級の武家が屋敷を構えた、川島から平安古[ひやこ]に流れる幅1.5mほどの用水路である。当初は阿武川から水を引き、灌漑[かんがい]用水として利用されていたが、1747(延享4)年に治水のため水路を広げ、平時は阿武川と萩城の外堀をつなぐ水上交通路として薪や炭などの物資の運搬にも使われた。その当時は大溝と呼ばれていたが、川端に藩営の藍玉座[あいだまざ](藍の集積所)ができ、藍場川と呼ばれるようになったという。その最上流に、旧湯川家屋敷がある。洗練された室内造作が見所の炊事場には水が直接引き入れられ、川面に斜めに張りだした板囲いのなかで、外からは見えないように水洗いや水が汲める「ハトバ」と呼ばれる仕掛けとなっている。

温和な気候、豊かな自然、萩の町で接する人々の柔らかな言葉づかい。かつてこの小さな三角州に住む人々が、江戸幕府をひっくり返したとは、とても思えない。松陰の誕生地である団子山から見る萩城下の家並みの向こうに、指月山が400年の歳月を超えて、今も萩の町を見守っている。
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江戸時代の絵図で、城下町散歩
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土塀と夏みかんの取り合わせは、萩らしさの代名詞となっている。
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木戸孝允旧宅と江戸屋横丁。江戸時代、鬢付け商の江戸屋があったことからこの名がついた。手前の門の住宅が木戸孝允の旧宅。
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久坂玄瑞と並び「松門の双璧」と称された高杉晋作の旧宅。尊王攘夷の意志を固め、倒幕へと藩を導いた。
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藩御用達の品々を扱っていた豪商の菊屋家住宅内部。
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藍場川は萩市内をおよそ2.6kmに渡って流れる。周辺は昔の面影をよく残し、川沿いの家では野菜を洗うなど、今も生活と共にある。
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旧湯川家屋敷の「ハトバ」。藍場川の水を引き入れ、洗い物や風呂の水汲みを室内で直接できるように工夫されている。
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