Blue Signal
July 2004 vol.96 
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特集[萩] 毛利家背水の陣、萩
萩の精神、松下村塾
江戸時代の絵図で、城下町散歩
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松下村塾の講義室。
8畳の広さで、ここで高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など、維新を成し遂げた志士達が松陰の教育を受けた。
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1853(嘉永6)年6月、相模湾に姿をあらわしたペリー艦隊は、幕府終焉という命運を決定づけた。ペリー来航が長州藩にもたらしたもの、それは吉田松陰という人物を登場させたことである。

吉田松陰は、1830(天保元)年、萩藩士杉百合之助[すぎゆりのすけ]の次男として生まれ、5歳のとき山鹿[やまが]流兵学師範だった叔父吉田大助の養子となり、6歳のとき吉田家を継いだ。幼くして藩の兵学師範たるべき運命を背負った松陰は、早くも9歳のときに藩校明倫館[めいりんかん]で兵学を講じ、11歳のときには藩主の前で『武教全書[ぶきょうぜんしょ]』という戦法編を講じるほどの学才を示している。10代の松陰は、兵学と経学にいそしみ、19歳で山鹿流兵学師範となる。

1849(嘉永2)年、20歳になった松陰は、藩命を帯びて長州沿海の海防の状況を調査。翌年には平戸や長崎にまで遊学し、その後数年は、江戸で多くの学者や志士を訪ね、佐久間象山[さくましょうざん]のもと西洋砲術などを学ぶようになる。さらに松陰は藩の許可を得ずに東北行きを決行。水戸、会津、弘前、米沢を巡って見聞を広め、「尊王攘夷[そんのうじょうい]」の識見を強めていった。

しかし、藩の許可を得なかったという脱藩の罪で松陰は萩に戻され、禄は没収、実父の監視下におかれることになった。1853(嘉永6)年、藩の許しが下り再び江戸へ出た松陰は、浦賀に来航したペリーの黒船を肉眼で見る運命的な転機を迎えることになる。翌1854(安政元)年3月27日の深夜、伊豆下田の浜から小舟で漕ぎだす2人の男の姿があった。25歳の吉田松陰と、その弟子・金子重輔[じゅうすけ]だった。「敵を知り己を知るため、5大州をかけめぐりたい」、そのため国外密航にすべてを賭けたのである。しかし、ペリーの答えは冷厳だった。渡航の試みに失敗した2人は江戸伝馬町[てんまちょう]の獄につながれた。

やがて江戸から萩の野山獄[のやまごく]に送られた松陰は、約1年の後に釈放されて実家の杉家へ帰った。1856(安政3)年から杉家で、幽閉の身のまま開塾。それを聞き伝えて受講希望者が集まるようになり、そこで1857(安政4)年、藩の許可を得て、松陰は叔父玉木文之進が開く松下村塾を受け継ぎ実質的な主宰者となったのである。

藩校明倫館の入学資格は当時、士分に限られていたため、足軽や町人などの子どもで向学の志に燃える者はこぞって村塾の門をたたいた。松陰の名を慕って武士階級から入門してきた者もいる。高杉晋作、久坂玄瑞などである。士分以外の出身者としては伊藤博文、山県有朋[やまがたありとも]をはじめ明治になって高名をはせた多くの俊才たちが、松下村塾で松陰の薫陶を受けている。その時松陰28歳。死までわずか2年に満たない期間に、松陰は彼らに何を教えたのであろうか。

松陰の思想の核心は、「草莽崛起[そうもうくっき]」論に象徴される。このままでは日本は外国に滅ぼされる。列強から日本を救うために、志ある者は身を捨てて決起すべきだというこの論を、松陰は自ら先頭に立って行動に移した。その急進的な思想と行動が、国の将来を憂う若者たちの魂を揺さぶったのであろう。

松陰は身分の低い家の子にも敬語で接したという。そして長所を見出しては褒めた。国と藩の存亡の時、「誠」をもって憂国を語る松陰の熱情と気概が、幕末・維新を動かすことになる人材を引き寄せたにちがいない。

そして1858(安政5)年、安政の大獄が起こる。松陰もまた危険人物として江戸に送られ、1859(安政6)年、30歳の若さで刑場の露と消えた。松陰が死の前日に門人たちへの最後の言葉を書き留めた『留魂録[りゅうこんろく]』に「我も齢[よわい]30、四季すでに備わり、花咲かせ実を結ぶところとなる。(中略)もし我が志を継ぐ者あらば、先々の種子絶えずして、永年にわたり穀物の実り続けるがごとし」とある。

吉田松陰のことを萩の人に問えば、老若男女が等しく「松陰先生」と、敬愛とともに返答することに驚く。松陰の精神は、萩の町に今も息づいている。
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明倫小学校の玄関に掲げられる藩校「明倫館」時代の額。松陰は9歳で明倫館で兵学を講じた。
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藩校「明倫館」の剣槍稽古場。坂本龍馬も1862(文久2)年、ここで試合をしたといわれる。
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松下村塾。松陰は1857(安政4)年に叔父の玉木文之進から塾を受け継いだ。実家の敷地内の小屋を改造したもので、平屋建、8畳一室と後で建て増した10畳半の居室からなる。
萩の精神、松下村塾
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藩校「明倫館」跡に建つ、明倫小学校に置かれた吉田松陰の座像。萩の人々にとって松陰は、現在も精神の主柱である。
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萩と三田尻港(防府市)を結ぶ萩往還(はぎおうかん)。勤王の志士達が京へ、江戸へと駆けた道。
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萩往還沿いに立つ「涙松の遺址」。松陰が江戸に送られる時に詠んだ和歌が刻まれている。
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吉田松陰の肖像・賛
(松陰神社蔵)
江戸送りの命が下った後、門人である絵師・松浦亀太郎が描いた。松陰はこれに自ら賛を入れ、門出の決心を示したという。
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『留魂録』。松陰の門人達への遺書と呼べるもので、江戸伝馬町の牢で書かれた。死に臨む覚悟や、同士の紹介と連絡先、大学を興して教育を盛んにしてほしいことなどをしたためた。(松陰神社蔵)
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