Blue Signal
March 2004 vol.94 
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特集[御手洗] 瀬戸内海航路と御手洗
時代のドラマを描く人物往来
今も歴史が息づく町並みを歩く
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「歴史のみえる公園」より本州方面を望む。眼下に御手洗の町を見下ろし、その向かいの島は愛媛県。左の一番遠くに見えるのが本州。
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時代が明治・大正となり、風待ち・潮待ち港としての御手洗の役割は失われたが、港町・遊興の町としての賑わいは大正・昭和初期までその余韻を残していた。江戸・明治・大正・昭和初期と、約300年の歴史を語りかける家並みが寄せ木細工のように残されている。

町並みに残る江戸時代の町家群は100軒以上、町の大半を焼き尽くした1759年(宝暦9)の宝暦の大火後に建てられた、切妻造の塗り壁の建物が建ち並ぶ。2階は窓の庇を屋根に取り込んだ出桁形式の大きな窓をもち、1階前面には半間突出し格子が入れられている。塗籠造の伝統的な町家は、防火建築として優れた様式だ。屋根は本瓦を深く重ねる贅沢な葺き方で、夏でも熱を遮断して室内は涼しい。外壁に船板を再生利用している家もあり港町らしい風情を醸している。間口は3間と狭く、奥行が長いのは、間口の大きさによって税金をかけられたことによるという。

御手洗の町でより一層目を引くのが「若胡子屋跡」[わかえびすやあと]である。若胡子屋は、かつて広島藩の認可を受けた4軒の茶屋の一つで、夕暮れともなれば三味線や太鼓の音が絶えることなく、江戸にもその名が聞こえていたという。

かつて御手洗きっての繁華街・相生[あいおい]通りを中心に、大正・昭和初期に賑わったであろうレトロモダンな建物が、そこかしこに見られる。下見板張り洋館の理髪店や病院、明治時代から続く4代目の時計店、極めつけは復元された「乙女座」[おとめざ]である。昭和初期に造られ、芝居や映画の興業が打たれた芝居小屋だった。2002(平成14)年の再建時には、「乙女座」の復元を祝って沖縄の舞踊団が公演した。江戸時代、先祖である琉球使節の江戸上りの一行が御手洗に度々停泊した折り、お世話になった縁とのこと。

海岸線へまわり、江戸時代の防波堤「千砂子波止」や住吉神社の「高灯籠」[たかとうろう]を見て歩いていると、愛媛の宇和島藩と大洲藩[おおずはん]の指定だったという船宿から、なにやら元気な会話が聞こえてきた。間口3間の3軒長屋の右端の家で、北前船やおちょろ舟などの模型を製作中の船大工・宮本国也さんだった。1991(平成3)年まで現役の船大工だったが、その年、御手洗を襲った台風19号の被害から仕事に見切りをつけ、宮本さんは店をたたんでしまった。そのとき彼の腕を惜しんで、やり甲斐ある仕事のヒントを教えてくれた人がいた。「北前船を作れ。たとえ20分の1の模型でも、その技は示せる」。造船工学の野本謙作先生(大阪大学名誉教授)のひと言が宮本さんの棟梁魂に再び灯をともした。かつて海と生きる匠の誇りを込めた宮本さんの作品は、御手洗300有余年の歴史を凝縮しているようだ。

細く入り組んだ路地を抜け、今は一面にミカン畑となっている小高い丘から眺めると、瀬戸内・芸予の島々がのどかに浮かぶ。この風景の中に、今も御手洗の風待ち・潮待ち港の長い歴史を見ることができる。
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「若胡子屋跡」の正面玄関。漆喰の白壁に連子窓の豪壮な造りから、往時の繁栄ぶりが偲ばれる。
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宮本国也棟梁の仕事場は、藩御用達の旧船宿。陽気な声が周囲に響く。
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壁がピンク色に塗られた洋館。今も現役の病院。
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2002(平成14)年に再建された、昭和初期のモダン建築「乙女座」。内部も当時の雰囲気を残した本格的な劇場の造りとなっている。
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夜明けの御手洗港。
「千砂子波止」の向こうに見えるのは四国・愛媛の山並み。
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船材を外壁に再利用した家。よく見ると曲線の板もある。
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明治時代から続く時計店の看板は懐中時計型。
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