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安芸[あき]の御手洗[みたらい]は、ほぼ南北に伸びた波静かな水道を利用し発展した、典型的な風待ち・潮待ちの港町である。

瀬戸内には、尾道、鞆、三ノ瀬のように中世以来の古い伝統をもつ港町がある一方、江戸時代になって繁栄をむかえた御手洗、鹿老渡[かろうと]などがある。瀬戸内を東西に結ぶ航路は、中世までは陸地沿いの海道の港町をたどる櫓漕[ろこ]ぎによる「地乗[じの]り」航路が主流であった。これに対して、木綿帆を用いることで帆走能力が向上した江戸時代になって、一気に沖合を進むことが可能となった。この革新によって開発されたのが「沖乗[おきの]り」航路で、鞆の浦[とものうら]から弓削[ゆげ]瀬戸へ入り、岩城[いわぎ]〜鼻栗[はなぐり]〜御手洗〜(鹿老渡)〜津和地〜上関[かみのせき]へと往来するものである。

「沖乗り」を躍進させたもう一つの背景には、海上輸送量の飛躍的増大があった。1672(寛文12)年、河村瑞賢[かわむらずいけん]によって酒田(山形県)から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ「西廻り」航路が整備され、これ以後西国だけでなく、東北・北陸地域からも続々と年貢米や各地の特産品を積んだ北前船が御手洗にやってくるようになる。これに加え、四国や九州諸大名の参勤交代の船団、長崎奉行の往来、オランダ使節や琉球使節の江戸上りなどの御用船の入り舟・出船で大いに賑わうこととなった。

港町御手洗の繁栄の歴史は、広島藩から開村許可を得た1666(寛文6)年に始まる。当初は、諸廻船に薪・水・食料などを供給する商売が中心であったが、やがて廻船の積み荷の売買を仲介する中継的商業が行われ、1819(文政2)年には「中国第一之湊」を自負するにいたる。

寄港・荷揚げのための港湾の整備は早く、岸壁は1716〜35(享保1〜20)年には現在に近い形のものができていたと思われる。船を岸壁につける大雁木[おおがんぎ]も築調され、広島藩の絵図面によれば大小8カ所の雁木(※1)がみられる。御手洗には、内港と外港の2つがあり、外港には千砂子磯[ちさごいそ]という暗礁があって、江戸幕府の船が入港する場合には、番船をつけて座礁しないように注意した。1829(文政12)年に、外港に広島藩の大波止[おおはと]「千砂子波止[ちさごばと]」が完成。1830(天保1)年、広島藩の御用商人を勤めた大坂の鴻池善右衛門[こうのいけぜんえもん]の寄付によって住吉大社の10分の1の社殿「住吉神社」を建立した。1832(天保3)年には、庄屋金子忠左衛門[かねこちゅうざえもん]によって高灯籠[たかとうろう]が寄進され、現在も常夜灯として町を照らし続けている。港湾施設として、「船たで場」も、内浜と外浜にそれぞれ1つずつあり、風待ち・潮待ちの間に船舶の修理にあたった。これほどの施設が200年も前からすでに築調されていたことは驚きである。

御手洗の名の起こりは、神功皇后[じんぐうこうごう](14代仲哀[ちゅうあい]天皇妃/神話時代)が、この地で手を洗ったから、また菅原道真が太宰府に流される途中、立ち寄って手を洗ったからともいわれる。御手洗の町には「天満宮」があり、境内には「菅公御手洗いの井戸」が残り、伝説の中ではあるが古代より中継港としての役割をもっていたことを伺わせる。

(※1) 雁木 石積みで階段状に造った船着き場・桟橋。潮の満ち引きに影響されず、船を岸に着けることができる。 |
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間口3間の2階建家屋はそれほど大きく感じないが、本瓦葺きと白い塗り壁が狭い通りに威圧感を与える。 |
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「千砂子波止」の全景。奥に建つ高灯籠は金子中左衛門が寄進したもの。手前は灯台で、平成になって建て替えられた。 |
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風待ち・潮待ちの船舶で賑わう、大正時代の御手洗港。この当時は石炭を積んだ舟が多かった。 |
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明治時代後期に撮影された御手洗。 高灯籠横の太鼓橋は今は石造りだが、当時は木造だった。 |
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現在の御手洗。上の写真と比較するとほとんど景色が変わっていない。 |
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「地乗り」航路は、鞆の浦を出て、布刈[めかり]瀬戸を抜け、忠海[ただのうみ]沖〜蒲刈三之瀬〜津和地〜上関へと往来する航路で地図の北側のコース。その南側のコースが「沖乗り」航路。 |
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潮待ちの港として自然の地形に恵まれた御手洗の港は、潮の流れが満潮時には北側に、干潮時には南側に流れる。 |
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御手洗の船大工・宮本国也棟梁復元による「北前船」 |
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御手洗の町を縫う細い路地の向こうはすぐ海だ。 |
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170年以上の時を経た現在も現役の「千砂子波止」。舟を繋ぎ留める一から十までの番号が彫られた石柱が残る。 |
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大阪の豪商・鴻池前右衛門が寄進した「住吉神社」。 |
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本殿は大阪の住吉大社を模して建てられている。(県指定重要文化財) |
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御手洗の名の起こりになったと伝わる、「天満宮」にある「菅公御手洗いの井戸」。 |
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