Blue Signal
March 2004 vol.94 
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食歳時記 桜湯
桜湯
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【吉野山の桜風景】
尾根から谷を埋め、爛漫と咲き誇る吉野の桜。下千本から奥千本まで、春は3万本のシロヤマザクラが吉野山を桜色に染め尽くす。吉野は大峰山修験道の聖地。桜は神木として大切にされてきたことから、名所といわれるに至っている。
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【勝手神社】
金峯山の山の入り口にある、吉野八社明神のひとつ。桜の名所にふさわしく、サクラの語源とされる木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)も祭神として祀られている。境内は、義経と別れた静御前が追っ手に捕まり、舞いを舞った場所としても知られる。
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「平野屋」の女将が丹精込めて漬ける桜の花漬け(写真下)。自然の色やほどよい塩加減を出すには、やはり自家製が一番という。季節の和菓子、抹茶に桜湯が付く。
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湯の中に花開く、爛漫の春
桜ほど、日本人を魅了してやまない花はない。〈世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし〉平安の歌人在原業平[ありわらのなりひら]は、桜咲く季節の心模様をこう詠んでいる。春の訪れとともに、桜の開花が気がかりとなるのは、千二百年の時を経た今も変わりはなく、花季[はなどき]の桜の名所は、その艶やかな美しさを求める人々で賑わいをみせる。桜はまた、鑑賞するだけではなく、葉や花は食用にもなり、季節の味わいへと姿を変える。中でも趣が深いのは、桜の花漬けを湯に浮かべて楽しむ「桜湯」。爛漫の春が碗の中に香る、風流な花の愛で方に、桜と日本人との関わりを探ってみた。
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桜の語源にみる田の神への信仰
現代人にとって桜といえば、花見の風習がなじみ深い。しかし、歴史を遡ってみると、奈良時代の花見は梅をさしていた。『万葉集』には、桜の歌は44首あらわれるものの、梅の歌118首と比べると、はるかに少ない。冬の花のない時期を過ぎ、一番に咲く花は梅。花を観賞することは中国文化の影響であったことから、中国伝来の梅への関心も高かったと考えられている。桜の花見の風習は、嵯峨天皇が南殿に桜を植えて宴を催したのが最初とされ、以降、平安王朝文化の興隆とともに貴族の間に広まり、さらに武士や大衆へと伝わったとされている。

桜の語源をひも解いてみると、サはサナエ、サオトメなど、穀物の霊をあらわす古語。クラは神が鎮座する場所を意味し、「サクラ」で穀霊の集まる依代[よりしろ]をあらわすとされる。そのため、田植え前の豊作を祈願した神事が花見の起源ともいわれている。もうひとつの語源に、『古事記』に登場する「木花開耶姫」[コノハナサクヤヒメ]がある。「木花」[コノハナ]とはサクラの花をさし、「開耶」[サクヤ]の音がそのままサクラの語源となったとする説である。木花開耶姫は、五穀豊穣の神として現在も信仰され、元来桜は農耕の指針となる樹木であることがうかがえる。
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祝いの席を彩る花の色香
日本には、自生種や園芸品種を合わせると、200種以上の桜の種類があるという。その中でも、桜湯に用いられるのは、香りが強く、色鮮やかな八重桜の花や蕾。摘み取ったばかりの花びらを、ひとつひとつていねいに塩漬けすることによって、花の香りが閉じ込められ、生の花よりも風味が増すという。その花漬けを茶碗に入れて湯を注ぐと、花弁がほぐれ、水中花を思わせる美しい飲み物となる。

「花開く」という縁起ものに通じる桜湯は、結納や結婚式など、おめでたい席での飲み物として知られる。茶は、「お茶を濁す」「茶化す」という意味に通じることから、祝儀の日には敬遠され、かわって桜湯を用いる慣習が広く伝わっている。

このように、現代ではおめでたい席で出されることが多い桜湯であるが、江戸時代初期までは、縁起の悪いものとされていた。その理由として、桜の花が散る時、急に色あせしてしまうことがあげられる。その「桜ざめ」が気持ちがさめることにつながると考えられ、桜の季節に婚礼を避ける風習まであったという。良くも悪くも、桜は人々の暮らしに深く関わりながら存在してきたといえる。
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桜の名所で味わう、一服の風流
京都市の西北、嵐山・嵯峨野。この地は桜の名所としても名高く、薄紅色の彩りが陽春の訪れを告げる。嵯峨野からさらに北に入った鳥居本には、創業四百年の歴史を持つ、鮎茶屋「平野屋」がある。代々、京の火伏せの神として信仰の篤い、愛宕神社への参拝客をもてなしてきた名店である。

この店では、季節の和菓子や甘酒とともに、桜湯が供されている。桜湯に使われる花漬けは、14代目の女将井上典子さんの手づくり。毎年、花摘みから漬け込みまでの一切を行っている。店からほど近い所に咲く八重桜の花を摘んでは、塩と色あせを防ぐための梅酢で漬ける作業を繰り返す。漬け時は、八分咲き程度が最適とされるが、「咲く前の花を摘んでしまうのが心苦しくて」と、花開く瞬間まで待つことが多く、開花の時期は天候をにらみながらの気ぜわしい日々が続くという。ほのかな香りとさっぱりとした風味の桜湯は、甘味との相性もよいため、一年を通して提供され、花のない季節の客にも喜ばれている。
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桜を暮らしに生かす知恵と文化
桜の花びらや葉を塩漬けにすると、独特の芳香が生まれるが、それはクマリンという成分によるもの。この成分は、二日酔いにも効果があるとされている。さらに、咳止めや解毒作用など、桜にはさまざまな薬効があり、山桜の樹皮を乾燥した「桜皮」[おうひ]は、生薬としてよく知られている。桜湯も、おめでたい席での咳止めのために飲まれたとする説があることから、その薬効は広く人々の暮らしに根ざしていたと思われる。こうしてみると、桜湯の風習は古くからの民間薬の知恵と、足早に過ぎてしまう花を惜しむ、日本人ならではの粋な文化の融合ともいえる。碗の中の温もりは、いつの季節も満開の春を思わせる。
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