Blue Signal
March 2004 vol.94 
特集
駅の風景
食歳時記
鉄道物語
陶芸のふるさと
鉄道物語
列車を停め、旅客や貨物の乗降を行う、駅。
鉄道を利用するためには必ず通る、もっとも身近な鉄道施設のひとつ。
駅の歴史と役割を紹介する。
思い出や物語が行き交う「停車場」
宿駅からステン所へ鉄道が変えた「駅」の意味
駅は、歌や小説、映画などの舞台となることが多い。旅の始まりでも終着点でもある駅は、さまざまな物語を生み出す。

停車場とも呼ばれるが、専門的には、列車を停めて旅客と貨物を取り扱うのが「駅」で、駅以外に操車場や信号場も含めたものが「停車場」と、後者の方がより広い意味をもつ。

現在でこそ駅というと、鉄道の駅を指すことが多いが、「駅」は鉄道創設以前からあった。奈良時代の大宝律令(701年)で制定された駅馬・伝馬制度がそれで、公用の旅行や緊急の通信のため、五畿七道の30里(のちの4里・約16km)ごとに設置し馬や船を配備した。これがやがて宿駅として鎌倉時代以降に発達する。

1872(明治5)年の日本の鉄道開業当時、列車に乗り降りする施設は「ステーション」という名称で、一般的には「ステン所」と呼ばれていた。この訳語が「停車場」で、やがて1888(明治21)年、市制、町村制の施行によって従来の駅がなくなったことにより、「駅」という名称が鉄道施設の意味に転用された。
西洋建築様式を採り入れた文明開化のシンボル
駅舎は、多くの日本人にとって初めて目にする西洋建築だった。滋賀県の長浜市には、現存する日本最古の駅舎として「旧長浜駅舎」が残るが、これもまた画期的な建造物だった。

1882(明治15)年に建設されたこの駅舎は、当時としては珍しいコンクリート製で白っぽい外観をもつ。高価だったレンガを節約するためにコンクリートを採用したというのが真相だが、なんともモダンに映ったことだろう。長浜〜大津間の連絡船への乗換駅であったために待合室が広く設計されたのが特徴となっている。

旧長浜駅舎は、1958(昭和33)年に鉄道記念物に指定され、現在は旧長浜駅舎・長浜鉄道文化館として一般に公開されている。駅長室、待合室、出札出入口などが当時のまま保存されており、鉄道の歴史を体感できる施設として貴重なものだ。敷地内には、これも鉄道記念物として指定されている「旧長浜駅29号分岐器ポイント部」や、「腕木色信号機」なども展示されている。
さまざまなドラマを生む出会いと別れの舞台
同じように連絡船との乗換駅として賑わった駅に、敦賀港駅がある。こちらはロシアのウラジオストクへとつながる国際連絡駅だった。

1884(明治17)年、敦賀港の金ケ崎駅から長浜駅までの鉄道開通を機に、新潟との定期航路を開設。1899(明治32)年には開港指定を受け、1902(明治35)年にウラジオストクとの航路も開設された。1912(明治45)年のダイヤ改正で東京の新橋駅から金ケ崎駅間に直通列車が運転され、東京からヨーロッパへの所要日数は約半分に短縮されたという。1919(大正8)年、金ケ崎駅は敦賀港駅に改称された。

敦賀港の開港100周年を記念して1999(平成11)年に開催された「つるが・きらめき みなと博」では、この旧敦賀港駅舎が再現され敦賀港と鉄道の歴史を多くの人に伝えた。現在も敦賀港の観光と歴史を伝える施設として利用されている。近くには、電気の乏しかった時代の光源として使われたランプの燃料を保管した「ランプ小屋」も残されており、駅に付帯する施設の変遷も知ることができる。

1880(明治13)年につくられた京都の稲荷駅ランプ小屋(奈良線)は、現存する国鉄最古のランプ小屋として知られているが、駅、停車場とその周辺施設には鉄道遺産として貴重なものが多い。往時のまま保存されるもの、資料館等へと形を変えて残されるものなどさまざまだが、鉄道の歴史を振り返る資料として貴重なものとなっている。

停車場を舞台にした物語の数々も、こうした資料とともに大切に語り継がれる。そして、また新しい物語が各地の停車場から生まれようとしている。
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旧長浜駅舎
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旧長浜駅/29号分岐器ポイント部
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旧長浜駅/腕木式信号機
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敦賀港
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敦賀港駅ランプ小屋
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稲荷駅ランプ小屋(奈良線)
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