城下の風景を歩く

出石 兵庫県豊岡市出石町

但馬随一の城下町に息づく城主ゆかりのそば文化

但馬の小京都と呼ばれる山峡の城下町 出石。
かつては、但馬随一の本城として五万八千石を誇り、背後に位置する有子山[ありこやま]城跡とともに、戦国から近世に至る時代の変遷を今に伝える。
碁盤の目の通りに、平入りの軒が続く町家の佇まいに小さな城下町ならではの風情が溢れている。

山陰本線「豊岡」「江原」「八鹿」駅下車。
全但バス、出石行きで約30分。

標高321mの有子山北側の山腹から山麓にかけて築かれた梯郭式の平山城。最上段に稲荷曲輪、その下に本丸、次いで二の丸や下の曲輪が並び、平地部分には三の丸が配置された。37基の朱の鳥居が続く参道を登れば、城の鎮守を祀る稲荷神社があり、城下を一望できる。

出石城跡

戦国と近世の城跡が時代を映す

 城下町出石を訪れると、城へ続く大手前通り沿いに「辰鼓楼[しんころう]」の姿がまず目に入る。町を見守るように建つかつての太鼓櫓は、今は城下のシンボルとして親しまれる時計台だ。その先には出石城跡が姿を現し、山頂に有子山城跡を構える有子山が深い緑をまとって控えている。

城にほど近い八木通りには、名物のそば屋が軒を連ねる。城下の地名には、八木氏をはじめとする山名氏重臣の名が残る。

内堀に面した石垣の上に建つ辰鼓楼。1871(明治4)年、城の玄関口にあたる大手門脇に建造された太鼓櫓で、1881(明治14)年に時計台に改修。現在は、4代目の時計が町のシンボルとして時を刻む。

 出石の城下町としての歴史は、戦国時代の山城へと遡る。1574(天正2)年、但馬[たじま]守護の山名祐豊[やまなすけとよ]が築いた有子山城は、東西約740m、南北約780mもある大城郭であった。その後、有子山城は豊臣秀長によって落とされ、山名氏は滅亡。城主を変えた後、1604(慶長9)年に小出吉英が山城を廃し、山麓に居城を移したのが出石城とされる。

 現在、城の前には東西に流れる谷山川に「登城橋」が架けられ、渡れば「登城門」に至る。「登城門」は往時の「北口門」で、1994(平成6)年に復元されたものだ。門をくぐって石段を上り、二の丸跡、本丸跡へと進むと、各曲輪[くるわ]が石垣によって構えられていたことが分かる。圧巻は、稲荷曲輪を仰ぐ13mもの高石垣で、苔むした野面[のづら]積みの石垣が遙かな時の流れを物語る。本丸跡には、1968(昭和43)年に東西の櫓[やぐら]が復元され、矢狭間[やざま]・鉄砲狭間の白壁が結ぶ。その上段、稲荷曲輪には「御代稲荷」の名で親しまれた古い社が残る。江戸時代、毎年初午の日には入城が許され、多くの参拝者で賑わったという。城の最上段から見渡す町は、慎ましい佇まいを見せている。

白磁の小皿が引き立てる出石名物

江戸時代には染付磁器が中心であったという出石焼だが、現在は、柿谷陶石から生まれる究極の白と、精巧な白磁彫刻の技法で伝統を継承する。(写真は虹洋陶苑製)

出石焼の小皿に盛り分け、ネギやわさび、山芋、卵を添えるのが流儀。そばは各店の味があり、入佐屋のそばは色白で細く、のど越しの良さが特徴。

 城下は、谷山川や出石川の自然の外堀が町全体を囲う。内町を取り巻くように、街道口には砦の役割を果たす寺院が配置され、武家屋敷が町家を守る特徴的な町割を形成する。1876(明治9)年の大火で町の大半は焼失したというが、江戸時代の地割りの上に切り妻平入りの町家が建築され、碁盤の目のように交差する道筋には、塗り込めの白壁や虫籠窓[むしこまど]、千本格子が美しい伝統的な町家が残る。

 町にはお城と並ぶもう一つの名物、出石皿そばの文化が息づく。町を歩けば至る所、挽きたて、打ちたて、茹がきたての「三たて」を信条とするそば屋の暖簾が揺れる。1706(宝永3)年、信州上田から国替えとなった仙石政明がそば打ち職人を伴ったことから、在来の技法に信州の技法が加わった出石そばが誕生。江戸時代後期の寛政年間に出石焼が始まり、城下の柿谷で採れる純白の陶石を原料にした磁器生産が藩の産業として奨励されると、白磁の小皿に盛る独自の様式が定着していった。今、43軒のそば屋が個性を競う中、そば打ち30年の「入佐屋[いるさや]」店主 片岡徹さんは、粉の挽き方、ふるい方にも徹底してこだわり、コシと食感が自慢の手打ちの味わいで町の名物を盛り立てる。秋が深まる頃、城下町は香り高い新そばの旬を迎える。

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