

「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し」。早朝の甘樫丘[あまかしのおか]に登ると『古事記』の一節が頭に浮かんできた。柔らかな朝陽の中に、畝傍山、耳成山、天香具山の大和三山が島のように浮かび、遠くに二上山、信貴山、生駒の山並みまで見渡せる。
実に美しい大和の国原だ。甘樫丘の麓の明日香の里は多武峯[とうのみね]の山陰でまだ薄闇に包まれている。静かに佇むその風景は、古代日本の揺籃期の記憶、政変と政争の歴史を秘めている。日本の国家の礎と文化が形成された舞台、「天皇」の称号、日本の「国号」が誕生したのが飛鳥の地であるともいわれている。

畝傍山の東南の麓に鎮座する橿原神宮の境内にある深田池。推古天皇は、大和や河内などに灌漑用の9つの池を造ったとされる。
小墾田宮跡推定地。推古天皇は甘樫丘の麓の豊浦宮で即位し、のちに小墾田宮を造営し、27年間をそこで過ごした。今はのどかな田畑の風景が広がる。
“飛鳥地方”とは、奈良盆地の東南部、現在の奈良県高市[たかいち]郡明日香村大字飛鳥を中心とした地域で、橿原市と桜井市の一部も含まれる。平野部と山端の無数の丘陵地が入り組んだ美しい里だ。5世紀頃からすでに渡来人が多く住み着いていたといわれている。
飛鳥の地は、6世紀末に日本の歴史上の大舞台となる。古墳時代の後期、大和朝廷は争いが絶えなかった全国の有力豪族を平定し、連合体として中央集権国家への道を歩み始めていた。国の創成が、記紀神話の世界から考古学的にはっきりするのは古墳時代後期からといわれ、その後に続くのが飛鳥時代である。
群雄割拠する豪族たちの中で台頭したのが新興の蘇我氏だ。やがて物部氏との崇仏、排仏争いに勝利した蘇我馬子は以後、絶大な権力を掌握する。大王[おおきみ](天皇)の外威としての地位を利用し、蘇我一族の妃が産んだ皇子を天皇に即位させる。敏逹[びだつ]天皇(30代)崩御の後、蘇我氏の専横ぶりに不満を抱いていた崇峻天皇(32代)を馬子は暗殺する。

飛鳥寺は596(推古4)年に創建された日本初の本格的な寺院。本尊は釈迦如来像。飛鳥大仏として知られる日本最古の仏像で、幾度となく補修されているが飛鳥時代の姿を今に伝えている。
飛鳥寺の住職、植島寶照(ほうしょう)さん。「飛鳥寺は崇仏派の蘇我氏によって建立され、三つの金堂を備えた大寺でした。ここを中心に、飛鳥文化の特徴である仏教を基調とした文化が展開されていったのです」と語る。
そして崇峻天皇亡き後、馬子は姪であり敏達天皇の皇后であった額田部皇女[ぬかたべのひめみこ]を即位させる。初の女性天皇、推古女帝(554〜628年)である。時代区分では、推古天皇の即位以後を飛鳥時代の始まりとしている。即位したのは甘樫丘北麓の豊浦宮[とゆらのみや]で、蘇我氏の氏寺、豊浦寺を改修して宮にしたという。
その宮跡の石敷きが現在の向原寺[こうげんじ]の境内にあり、この石敷きの上を推古天皇が歩いたに違いない。この付近は飛鳥時代の原点というべき場所で、宮はやがて後の宮殿の原型となる小墾田宮[おはりだのみや]に遷る。『日本書紀』推古紀は額田部皇女(推古天皇)をこう記している。「姿色[みかお]端麗[きらきら]しく、挙措[きょそ]動作は乱れなくととのって」。つまり相当の才色兼備であった。
政治手腕も極めて優れており、馬子の支配をかわしつつ、甥の厩戸皇子(聖徳太子)に摂政を委ねる。「冠位十二階の制」「十七条憲法」「遣隋使の派遣」などの改革を推し進め、また、大規模な灌漑工事も行った。それらは天皇を中心とした中央集権国家の始まりであった。
そして仏教が公認、奨励され、日本初の本格的寺院である飛鳥寺をはじめ大寺が次々に建立された。そうした仏法の興隆に貢献したのも女性で、百済に渡り大戒を得た善信尼[ぜんしんに]は、日本で初めての正式な僧となった。推古天皇はその功績を称えたという。飛鳥文化は仏教を中心に育まれ、さらに遣隋使を通じて国際色豊かな華やかな文化を飛鳥にもたらした。
推古天皇の在位は36年に及び、新しい国づくりを推し進めた功績は絶大だ。今の飛鳥には、穏やかな田園風景が広がるばかりだ。だが、この地に立ち、遠い飛鳥の時代に思いを馳せれば、1400年前の風景がにわかに立ち現れてくる。
石舞台古墳。調査の結果、飛鳥時代に絶大な権力をほしいままにしていた蘇我馬子の墓とされる。全長約19m、石の総重量は約2,300tもある。