沿線点描 おおさか東線 新大阪駅〜久宝寺駅(大阪府)

おおさか東線全線開通!新大阪から大阪東部を走り、古都奈良に直結

「おおさか東線」は、新大阪駅から久宝寺駅まで20.2km。2008(平成20)年に放出駅〜久宝寺駅間9.2kmが開業し、2019(平成31)年3月に新大阪駅〜久宝寺駅間の全線が開通した。旧城東貨物線の路線を走る列車は淀川を渡り、大阪の東部を縦断しながら生駒信貴山を眺めつつ、久宝寺駅をめざした。

車窓から見える淀川。

「おおさか東線」の4つの新駅

 「おおさか東線」が、2019(平成31)年3月に全線開通した。前身はかつての吹田操車場と八尾市の竜華[りゅうげ]操車場を結んだ旧城東貨物線で、旅客線化した路線だ。放出[はなてん]駅から久宝寺駅まではすでに部分開業していたが、新たに4駅を新設し、おおさか東線の全線が開通した。新大阪駅から奈良駅まで直通列車も走る。

 起点の新大阪駅は、山陽・東海道新幹線の大阪の玄関口で地下鉄も乗り入れるターミナル駅だ。京都、神戸、そしておおさか東線で奈良に直結しさらに利便性が増した。

 新大阪駅のホームを離れた列車はまもなくJR京都線の東淀川駅を車窓に映し、神崎川を渡ると南吹田駅だ。新設された4駅の1駅で、ここから新駅が連続する。再び神崎川を渡ると、列車は進路をゆるやかに反転し南下する。隣のJR淡路駅の周辺は特に都市開発が著しく、他社鉄道の大規模な高架化事業も相まって商店街を中心に活気づいている。その淡路の地名については、学問の神様と謳われる菅原道真が関係する。道真が大宰府に左遷される途中に、この地を淡路島と勘違いしたのだとか。駅の東側には「菅原」という名の地区があり、そこに「天神」さんが鎮座している。

道真公を祭祀した菅原天満宮。901(延喜元)年に大宰府に流される際に、中洲であった現在の西淡路町周辺を「淡路島」と間違え、上陸したと伝わっている。

毛馬水門・閘門近くの淀川堤防上にある与謝蕪村の句碑。碑には、『春風や 堤長うして 家遠し』と蕪村の自筆が刻まれている。

城北公園通駅前の蕪村通り商店街。この地域は江戸中期の俳人、画人で有名な与謝蕪村の生誕地とされている。城北公園通駅西口は、「蕪村口」と命名されている。

 列車はさらに南に向かい、沿線最大のビューポイントである赤川鉄橋に差しかかる。貨物線時代からの佇まいを残したトラス橋梁が往時を偲ばせ、大阪湾に注ぐ大河・淀川が車窓に広がる風景は壮観だ。車窓に見入るうちに、城北公園通駅に到着。駅名表示板の下を見ると、「与謝蕪村[よさぶそん]生誕の地」と書かれている。駅前から東西に延びる蕪村通り商店街を西に抜けると毛馬[けま]で、この辺りが江戸中期を代表する俳人、画人として名高い蕪村の生誕地と伝承されている。その昔、幾度と氾濫を繰り返し甚大な水害を及ぼした淀川、その治水を管理する毛馬水門・閘門[こうもん]のそばに蕪村の歌碑が置かれ、それには故郷である毛馬に対する蕪村の強い郷愁の思いが謳われている。

 列車は住宅地をさらに南下し、真新しいJR野江駅を過ぎるとやがて寝屋川に差しかかる。鴫野[しぎの]駅を通過した列車はすぐに片町線が乗り入れる放出駅に到着だ。

城北公園内にある城北菖蒲園。約250種13,000株の花菖蒲が植えられている。見ごろを迎える6月には公園を美しく彩り、大勢の人が訪れる。

明治時代に竣工した毛馬第一閘門の遺構。旧淀川(大川)に流れ込む水量を調節し、船運の利便を図った。

おおさか東線に新駅誕生

南吹田駅

城北公園通駅

JR淡路駅

JR野江駅

 おおさか東線に4つの新駅が誕生。「南吹田駅」、「JR淡路駅」、「城北公園通駅」、「JR野江駅」で、各駅舎の改札前にコンセプトをあしらったモニュメントが展示されている。南吹田駅のコンセプトは「神崎川と水路の風景」。この地域はくわい栽培が盛んで、水田に揺らぐ稲穂やくわいの風景を表現している。JR淡路駅は「菅原道真と淡路」。道真が漢詩に詠むまで愛した梅の風景をモチーフにしている。城北公園通駅は、「淀川の渡し舟」。旧淀川の水運で活躍した渡し舟が水面に浮かぶ様子だ。JR野江駅は「榎並猿楽[えなみさるがく]」。能の起源とされる「榎並猿楽発祥の地」にちなみ、舞台五色幕や演舞を表現している。

各駅にはデザインコンセプトが設けられ、改札前のモニュメントにそれぞれのイメージがあしらわれている。写真はJR野江駅。

再開発の放出から蓮如の築いた寺内町へ

寝屋川を渡る列車。(JR野江駅〜鴫野駅)

 難読の放出は「はなてん」と読む。地名の由来は諸説ある。駅からほど近くに鎮座する「阿遅速雄[あちはやお]神社」の由緒によると、新羅の僧が「天叢雲の剣[あめのむらくものつるぎ]」を盗み出し、本国に持ち帰ろうとしたが途中で船が難破した。神罰を恐れた僧は、やむなくこの地に神剣を「放り出した」という伝承にちなんだ説もある。

 現在の放出駅南側は住宅が建ち並ぶが、かつての放出は川沿いに工場が並び、商店街は賑わったそうだ。当時は駅周辺が旧城東貨物線の貨物基地で、トラックの出入りも多かったという。後に貨物基地が姿を消すと、その跡地は急速に開発が進んだ。

 列車は第二寝屋川を渡ると再び進路を南に高井田中央駅、JR河内永和駅を過ぎ、JR俊徳道駅へ。駅から離れるが、東方の住宅街の一角に立ち寄りたい見どころがある。『竜馬がゆく』や『街道をゆく』などの著書で知られる司馬遼太郎の自宅兼博物館の「司馬遼太郎記念館」だ。世界的な建築家 安藤忠雄が手掛けた記念館は著名な作家の講演なども催されている。

創建年号は定かではない阿遅速雄神社。境内には、樹齢1000年とされる天然記念物のクスノキがある。

放出駅周辺はかつての貨物基地の跡地が再開発された。

司馬遼太郎記念館

高さ11mの大書架には資料、自著、翻訳本など約2万冊もの蔵書がイメージ展示されている。

円形の外観デザインを持つ司馬遼太郎記念館。

 2001(平成13)年に開館した司馬遼太郎記念館は、東大阪市の住宅街にある。記念館は、建築家の安藤忠雄氏設計によるコンクリート打ちっ放しの建物で構成される。地下1階、地上2階建ての館内には、約2万冊(自宅には6万冊)の蔵書が、高さ11mの3層吹き抜けの大書架に展示されている。書架に設置された机には、来館者の思いを自由に記す「対話ノート」が置かれ、英語や中国語など外国語も数多く記されている。

 また、司馬遼太郎が好んだ雑木林をイメージした庭からはファン必見の書斎が見られる。ほかにも館内にはホールやカフェ、書籍やグッズの販売コーナーなどが設けられている。

JR河内永和駅で近鉄奈良線に乗り換え「八戸ノ里駅」下車、徒歩約8分。

創建は1100年以上前からとされる許麻神社。周辺には、久宝寺観音院があったと伝わる。「八尾市まちなみセンター」理事の谷浦さんは、「久宝寺に訪ねてくる人は、久宝寺の歴史について“知らなかった”と口を揃えます。久宝寺には、蓮如さんの築いた町割がそのまま残っていますよ」と語る。

久宝寺駅に展示されるC57101号蒸気機関車の動輪。かつてこの地に竜華操車場があった。

 列車はさらに南下し、JR長瀬駅を過ぎて、昨年開業した衣摺加美北[きずりかみきた]駅を通過する。東に進路を変えた列車は新加美駅を過ぎ、生駒信貴山の山並みが車窓から見えるとやがて終点の久宝寺駅だ。

 久宝寺駅周辺はかつて東西約2km、南北約200mの旧国鉄竜華操車場があった。かつては1日1,500両の貨車や東京行きの夜行寝台車などが納まる車両基地だったがその跡地に宅地開発が進み、住宅地として姿を変えている。

 対照的に、駅の北側は昔の佇まいが現在に残っている。久宝寺は400年以上の歴史を誇る寺内町で、蓮如上人[れんにょしょうにん]を中心にまちづくりが行われ、発展した。かつては二重の環濠が町を巡り、外部からの侵入を妨げる防衛壁の役割を担っていたという。ところで、地図を見ても「久宝寺」が見当たらない。「八尾市まちなみセンター」理事の谷浦政男さんは、「現在、“久宝寺”はありません。許麻[こま]神社周辺に聖徳太子が刻んだ久宝寺観音院があったとされています」と教えてくれた。その伝・太子作の「観音さん」は現在、まちなみセンター向かいの念仏寺に祭祀されている。

 新大阪駅から久宝寺駅までのおおさか東線により、大阪東部や奈良へのアクセスが格段に便利になった。

400年の寺内町・久宝寺

碁盤目状の通りには格子や白壁の町家が残り、国の登録有形文化財に登録される主屋や蔵もある。

1479(文明11)年建立の西証寺。現在の顕証寺で、1541(天文10)年頃にこの御坊を中心に久宝寺寺内町が誕生した。

 大阪府八尾市西部に位置する久宝寺は、戦国時代に形成された400年以上の歴史を誇る寺内町だ。本願寺第八世蓮如上人が河内での布教の際、「帰する者市の如し」というほどに帰信者が多く、その拠点に「西証寺」を建立したことに始まる。後に「顕証寺」と寺号を改め、まちの中枢寺院として強大な権勢を誇った。碁盤目状の町割は往時の姿をとどめ、久宝寺には現在も江戸や明治時代の町家が残る。庄屋の主屋や蔵は、国の登録有形文化財に登録されている。

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