糸の切れなどを職人が素早く直しながら反物が織り上がっていく。昭和時代の織り機が並ぶ与謝野町の堀井織物工場。

特集 300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊〈京都府宮津市・京丹後市・与謝野町・伊根町〉 ちりめん王国、丹後

2ページ中2ページ目

加悦の「ちりめん街道」を歩く

与謝野町加悦の「ちりめん街道」。丹後と京都を結ぶ丹後ちりめんの物流の拠点として栄えた。通りには、織物工場や尾藤家などのちりめん商家など明治・大正・昭和の建物が並ぶ街並みが残る。

京丹後市大宮町の丹後織物工業組合中央加工場。組合員の各機屋さんが織った白生地は、精練されることで独特の「しぼ」を生む。

昔はそのままで京都の問屋へ出荷していたが、昭和初期に地元で精練、品質検査を行う国練検査制度を開始。地元直産の付加価値と品質を高めた。写真は乾燥前の端出し作業。

 丹後地方には秋から冬にかけて北西の季節風が吹く。「うらにし」といい、「弁当忘れても傘わすれるな」と天候が不安定な日が続く。寒さは厳しく、雨や雪の日が多い。絹織物は、糸が切れやすい乾燥を嫌う。この湿潤な丹後地方の厳しい風土が絹織物には適していたのだ。

 丹後地方の多くの農家が機屋を兼業し、人々の暮らしを支えた。その数、全戸数の半数以上を数えたという。収入の不安定な沿岸部の漁師も安定した現金収入になるというので機屋に転業した例も少なくないという。ところが、1927(昭和2)年3月に北丹後地震が発生した。峰山や網野、加悦などの主な生産地は家屋、織物工場の倒壊は90%以上。被害は甚大だったが全国の織物産地からの援助もあって、その月末には2割が操業を再開。一カ月後には生産量は5割を超える奇跡の復活を果たした。設備は更新、合理化され生産能力、効率は大幅にアップし、織物事業者たちのパワーに銀行は融資を惜しまなかったという。これ以後、丹後は生産量で国内最大のちりめん生産地となった。

 最盛期は昭和40年代。生産量は年間1,000万反弱。「ガチャマン景気」といわれた。機織りでガチャンと織れば万円を稼ぎ出すというので、ガチャマン。この頃、丹後では全国のどこよりも早く最新の車が走っていたという。「現在は往時とくらぶべくもありません。でも、国内の絹織物の約7割を生産する国内最大の生産で他を圧倒しています」と話すのは大宮町の丹後織物工業組合の藤堂博之さん。

 丹後織物工業組合は組合員の各機屋さんが織り上げた白生地を精練、加工、商品検査を行う。丹後は文字通り日本一の「ちりめん王国」である。その主要産地の一つ与謝野町加悦を訪ねた。町を貫く全長800mの旧街道は「ちりめん街道」と呼ばれ、沿道の家並みは「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

与謝野町の堀井織物工場。3代目の堀井滋之さんと4代目の健司さん親子は、自家工場形態の白生地反物メーカーとして京都の白生地問屋や呉服メーカーから受注生産。白生地の反物は月産600反。

白生地の可能性と増産のため、広幅織機の電子ジャカード機を導入し、織柄のきめ細かさ、能率の向上のほか、従業員の労働環境の改善にも成果を挙げている。

 約120棟を数える伝統的建造物群がまるで博物館のように、江戸から明治、大正、昭和初期の各時代の建物が軒を連ねている。その中の一軒、尾藤家は北前船の船主でちりめん商家として巨万の財を成した豪商。窓の格子が4本は機屋、3本は呉服屋、2本は糸屋という。加悦の町を歩いているとガチャガチャという機織りの音が聞こえてくる。

 ガチャの音を頼りに訪ねたのは、1912(大正元)年創業の堀井織物工場。現当主の堀井滋之さんは3代目、4代目の健司さんの親子と従業員5名で操業している。当主の滋之さんは「呉服離れで、丹後をはじめ全国の白生地の産地はどこも衰退と縮小が進んでいます。でも白生地の需要がなくなることはない。根強い需要があるんです」。

 白生地生産量は年々減少している一方で、メーカーが望む白生地はむしろ不足傾向なのだという。「生産性の向上と、新しい仕掛けでまだまだ拡大できます」と4代目の健司さんは言う。実際、新しい設備の導入で生産量は1.5倍に増産。今後は洋服生地としての白生地も視野に入れているという。

京丹後市網野町の染織工房「山象舎」では丹後の風土をテーマに、丹後に自生する植物を図案化し、その草木で「丹後ちりめん」の染色作品を創作。写真はヤシャブシの草木染めの着物(ろうけつ染)。

 「丹後ちりめん創業300年事業実行委員会」では丹後の上質な染織を世界に発信していく事業者を認定している。染織工房の「山象舎」も認定者で、染織家の堤 木象さんご夫婦が主宰している。東京の美大を卒業し、アートイベントが縁で30年前にご夫婦で東京から網野町に移住し、丹後の自然と風土を主題に染色作品を創作している。

 「冬は耐え難いほど厳しい。けれど丹後の風土が好きです」と堤さん。「丹後ちりめん」の新たな担い手の一人である。もう一度、天橋立が横たわる阿蘇海を眺めに行った。与謝蕪村の有名な一句が浮かんだ。「春の海 ひねもすのたり のたりかな」。小春日和の阿蘇海は波静かで実に穏やかであった。

ページトップへ戻る
前のページを読む
  • 特集1ページ目
  • 特集2ページ目
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ