続・沿線点描 スローな旅 井原鉄道 総社駅〜神辺駅(岡山県・広島県)

山陽道の三宿場を巡って、備中から備後へ。

1999(平成11)年に開業した第三セクター鉄道の
井原[いばら]鉄道は、岡山県西南部と
広島県備後地域を結ぶ全長41.7kmの路線。
岡山県総社駅から旧山陽道に沿って列車は西へ向かい、
広島県神辺駅を目指す。

高梁川に架かる橋梁から望む風景。
(清音駅〜川辺宿駅)

高梁川橋梁を渡り、倉敷の奥座敷矢掛へ

備中国分寺の五重塔。県内唯一の五重塔で、高さは約34.3m。国の重要文化財に指定されている。

 かつて大和や出雲と並ぶ強大な勢力を誇った吉備王国。現在の総社[そうじゃ]周辺は国府が置かれ繁栄した。吉備路には全国4位の規模を誇る造山[つくりやま]古墳をはじめ無数の古代遺跡が点在している。中でも、聖武天皇ゆかりの備中国分寺の五重塔は吉備路のシンボルとして万葉時代の趣を今に伝えている。

吉備真備を偲んで設けられた吉備真備公園。吉備真備は遣唐使として現在の中国に渡り、日本へ最初に囲碁を伝えたといわれる。

 今回の旅の起点は、JRの伯備線と吉備線が乗り入れる井原鉄道の総社駅。沿線は昨夏の西日本豪雨で大きな被害が出たが、現在は復旧している。列車は進路を南に清音[きよね]駅を過ぎ、カーブを描いた長さ716mの高梁川橋梁を渡ると川辺宿[かわべじゅく]駅だ。宿場町だった当時は高梁川に橋はなく、舟や徒歩で渡っていた。川が氾濫すると人々は逗留を余儀なくされ、川辺宿は大いに賑わい潤った。

 隣駅は人名がそのままあてられた吉備真備[きびのまきび]駅。この地は遣唐使で知られる吉備真備の出生地で、周辺一帯は真備[まび]町という。吉備真備は“学問の神様”菅原道真と並び称される知識人で、政治家としても手腕をふるい右大臣にまで出世を果たした。また、真備町は推理小説作家 横溝正史のゆかりの地でもある。約3年半の疎開生活で作品の構想が練られたという。1946(昭和21)年に『本陣殺人事件』が発表され、ここ真備町から名探偵 金田一耕助が誕生した。疎開宅のある岡田地区には作品にまつわる見所が点在し、全国からファンが訪ねて来るそうだ。

 列車は小田川に沿って西に向かう。備中呉妹[びっちゅうくれせ]駅と三谷駅を過ぎ、トンネルを抜けると車窓には穏やかな美しい田園風景が続く。矢掛駅はまもなくだ。駅から南にほどなく旧山陽道が東西に走っている。800mの街道沿いには、白壁なまこ壁に格子戸の間口が狭く奥行きのある「うなぎの寝床」の町家が整然と並んでいる。矢掛宿は参勤交代で賑わったかつての宿場町で、交通の要衝として発展し、幕府直轄の天領として栄えた時代もあった。

 本陣、脇本陣がともに国の重要文化財に指定されているのは全国でも唯一で、貴重な文化遺産として保存されている。近年、矢掛は特に観光に力を入れているそうだ。古民家を再生した旅館をはじめ、大正や昭和初期の建物などが混在する旧街道には古い建物を活かしたおしゃれなカフェなどが増え、若者や観光客の人気を集めている。

矢掛の旧山陽道には国の重要文化財に指定されている本陣、脇本陣をはじめ白壁の町家と土蔵が軒を連ねる。

矢掛の本陣通りに面した古民家を、おしゃれにリノベーションした「カフェと雑貨のお店シーズ藤原家」。

名探偵 金田一耕助の生まれ故郷真備町

横溝正史が60年以上前に家族と疎開した横溝正史疎開宅。

横溝正史の日記によると、金田一耕助は1946(昭和21)年4月24日にこの疎開宅から誕生した。

 倉敷市真備町は、推理小説作家 横溝正史が描いた金田一耕助の故郷で知られる。金田一耕助シリーズの第1作目『本陣殺人事件』は真備町を舞台にした作品で、モデルにした駅や町名が作中に登場する。

 疎開宅のある岡田地区には作者と物語にまつわる見所が点在し、「金田一耕助ミステリー遊歩道」というコースもある。スタートは清音駅で、中間地点は横溝正史疎開宅。道中にある作品ゆかりの史跡や施設を巡り、全長約7kmのコースは川辺宿駅で終了する。また、参加者が作中の登場人物に仮装しながら散策するというイベントも実施され、全国からファンが訪れる。

星の郷 美星町から宿場町 神辺へ

田園風景の中、高架上を走る列車。(備中呉妹駅〜三谷駅)

早雲の里荏原駅に停車する列車。背後に見える高越山には、かつて早雲の父、伊勢新左衛門盛定が治めた高越城があった。

弓矢がモチーフとされる井原駅。井原市東部の荏原郷(庄)は、源平合戦で活躍した那須与一が拝領した荘園の一つ。駅舎内には井原デニムのショップが併設されている。

1993(平成5)年に設立された井原市美星天文台。施設には口径101cmの反射望遠鏡を備え、月・金・土・日曜は夜間観望会を実施している。天文台長の綾仁さんは、「ここでは都市部では見られない星空がご覧いただけます。人気は月や土星で、球状星団も見えます」と話す。

 矢掛駅を離れた列車はさらに西に向かい、小田駅、早雲の里荏原[えばら]駅を過ぎる。荏原は伊豆や相模を手中に収めた戦国大名、北条早雲[ほうじょうそううん]が青年期まで武芸と学問に励んだ生誕の地だ。

 約20分で井原駅。斬新な駅舎の構内にはデニムショップがある。井原は児島と並ぶ世界に誇るデニムの町で、1970(昭和45)年頃にはジーンズの国内生産量のうち75%を占めた。「国産デニムの聖地」と呼ばれる井原は江戸時代より綿花栽培が盛んで、藍染織物の産地だった。明治、大正時代には学生服や作業服なども手掛け、海外にも輸出された。現在でも欧米を中心に取引されている。

 井原駅から距離はあるが北東の方角に神秘的な地名の町がある。吉備高原に広がる美星町、「びせい」と読む。3つの流れ星がこの地に落ちたという『星尾降神伝説[ほしおりゅうじんでんせつ]』の伝承から「星の郷」で知られる。全国に先駆けて「光害防止条例」が施行されている。屋外照明を上方に照らさないことで夜空が明るくなることを防ぎ、その暗さから鮮明に星を見る環境づくりを実践しているのだ。美星町の天体観測の拠点、井原市美星天文台で天文台長を務める綾仁[あやに]一哉さんは「美星は町を流れる美山川と星田川の頭文字に由来します。近年はSNSなどの普及で訪れる人が増えました」。天文台の夜間観望会は評判で、1日300人が訪れることもあるそうだ。

条例で守られる美星町の星空

井原市美星天文台からの満天の星空。

その昔、3つの流れ星が美星町に落ちたという「星尾降神伝説」の伝承が残る星尾神社。

 岡山県西南部に位置する井原市美星町は「星が美しく見える町」で知られる。街灯や看板照明など上向きの明かりは禁止されるなどの試みで本来の夜の暗さを実現し、美しい星空を眺められるよう地域全体で努めている。

 美星町の天体観測の拠点、井原市美星天文台では夜間観望会を開催し、誰でも気軽に望遠鏡を覗くことができる。美星町は1987(昭和62)年に「星空の街」として環境庁に選定され、2011(平成23)年には天文学者による「日本三選星名所」に認定された。

 再び乗り込んだ列車はいずえ駅を過ぎ、子守唄の里高屋駅へ。「ねんねこ しゃっしゃりませ」のフレーズで知られる『中国地方の子守唄』は高屋町で歌い継がれた子守唄で、それを耳にした作曲家 山田耕筰が感銘を受け、編曲したことで全国に広まった。列車は広島県に入り、御領[ごりょう]駅、湯野駅を過ぎて南下する。高屋川を渡れば、終点の神辺[かんなべ]駅だ。

 神辺はかつての備中高屋宿と備後今津宿の中間地点で、山陽道の宿駅として栄えた。神辺宿には東西2つの本陣があり、黒塗り土塀の西本陣はかつての佇まいを現在に伝えている。街道沿いには軒の低い白壁瓦屋根の和菓子屋、煙突のある酒蔵などの商家が往時を偲ばせ、朱子学者 菅[かん]茶山[ちゃざん]の廉塾[れんじゅく]兼旧宅も保存されている。

 山陽道の宿場町を巡る道程は、美しい星空とかつての参勤交代の名残に触れる旅でもあった。

『中国地方の子守唄』発祥の地、高屋町。高屋町出身の声楽家、上野耐之(たいし)が幼少期より育まれた母の子守唄を山田耕筰に独唱披露し、昭和の初めに『中国地方の子守唄』として世に広まった。

岡山県南西部笠岡と井原を結ぶ路線として1913(大正2)年に開業した旧井笠鉄道。かつての路線上の駅だった旧新山駅舎を、「笠岡市井笠鉄道記念館」として井笠鉄道の歴史を保存展示している。

西国街道の宿場町「神辺宿」

江戸時代の面影を今に残す神辺の旧西国街道。街道沿いには白壁や土蔵の町家が現在も残る。

朱子学者 菅茶山が40年の間、郷学のために尽くした廉塾。当時の講堂・居宅などが現存し、講堂前には塾生が筆や硯を洗ったと伝わる水路や菜園などがあり、往時が偲ばれる。

 西国街道の宿場町として栄えた神辺はかつての備後国の中心で、城下町でもあった。神辺宿には西本陣に東本陣、脇本陣が置かれ、参勤交代の大名や和歌を詠む旅人、牛を追う村人などさまざまな往来で賑わった。東本陣に生まれた朱子学者の菅茶山は京で学び、1781(天明元)年頃に郷里で私塾を開いた。その廉塾により全国から学生や文人が足を運び、神辺に文化をもたらした。西本陣は「神辺本陣」として県の重要文化財に、廉塾は「廉塾ならびに菅茶山旧宅」として国の特別史跡に指定されている。

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