- 1935年生まれ。京都府京都市出身。タレント、パーソナリティ、映画評論家。1974年からMBSラジオの『ありがとう浜村淳です』のパーソナリティを担当している。芸能人としては初めて、国立大学(和歌山大学経済学部)の講師となったことで話題になった。2006年には徳川夢声市民賞を受賞。2009年、第4回おおさかシネマフェスティバル特別賞を受賞。長年の映画への貢献が受賞理由。2011年、第37回放送文化基金賞「放送文化賞」を受賞。
虹の湖畔を走りすぎ列車は月見草の丘にさしかかる。
左手に遠く近く比良の山なみがつづく。
ぼくがこどものころ、この路線はなかった。京都から米原へ進み、そこから北陸線に入って行ったように思う。ぼくは9才の小学生で母といっしょだった。
余呉の湖に白い桜の花が散っていた。
昭和19年、太平洋戦争の末期だった。母の弟がフィリピン沖で輸送船に乗っているところをアメリカの潜水艦に攻撃されて海底に沈んだ。遺骨が帰って来たので本籍地のある富山の市役所まで取りに来るようにと通知があり、ぼくたちは汽車に乗ったのだった。
客車は満員だった。ぼくも母も混雑する通路に荷物を置いて腰かけていた。赤ン坊が泣いていた。若い女性が胸をはだけて乳房をふくませていたが赤ン坊は泣きやまなかった。
「私もほとんど食べていないのでお乳が出ないんです」女性は悲しそうにつぶやき「よし、よし」と、むずがる赤ン坊の体をゆすりつづけていた。
近くに坐っていた中年の男が竹の皮で包んだ大きなのり巻を取り出して女性にすすめた。
「赤ちゃんのためにあげます」「ありがとうございます。おいくら払えばいいでしょう」「とんでもない、わしは商売人ぢゃありませんよ。召しあがって下さい」
まわりの人々が、ほほえんでみていた。女性はのり巻を口に入れてゆっくり噛みくだいて赤ン坊に口うつしであたえてやった。赤ン坊が泣きやんだ。涙ぐんでみている人もいた。
何時間かかっただろう。やっと富山駅についた。母もぼくも煤煙で顔が黒くなっていた。おたがいの顔を見て笑い合った。叔父の遺骨は白木の箱に入っており、白い布で包んであった。ぼくはそれを胸に吊るした。行き交う人々が、みな頭をさげるか合掌してくれた。
京都に帰って箱をあけてみると小石がひとつ、ぽつんと入っているだけだった。
その数日後、富山の街は米軍機の爆撃によって焼野原になった。戦争の残酷さと悲哀がこどもの心まで重く沈ませた。
昭和28年、大学入学までの春休み、ぼくは金沢と能登鹿島にある親戚をたずねて、ひとり旅に出た。そのときに詠んだ俳句らしいものがいまも手帳に残っている。
「さかづきは九谷 お城は花の宴」
「雪嶺の裾は菜の花 加賀の旅」
2013年、ぼくはラジオ番組の聴取者のみなさんと能登和倉温泉の加賀屋へ一泊旅行した。湖西線を走るとき70年前とおなじく湖畔に虹が立っていた。月見草の丘はなくなっていた。あのころとくらべると列車の旅は、なんと明るく、はなやかになっていることか。車両も駅舎も、みんな美しくおしゃれになっている。
ぼくたちは敦賀の駅で安田の蒲鉾を買い福井の駅で羽二重餅を買い、金沢の駅で「あめや」の飴を買い、おおいに、はしゃいだ。千里浜のあたりを走ったときは波しぶきの花が春の日に光って飛んで来た。何年も前、我が国を代表する作曲家の故・服部良一先生と「列車の旅」をテーマに対談したことがあった。先生はひとつの秘話を語ってくださった。昭和25年ごろ石坂洋次郎氏の新聞小説「青い山脈」が映画化されることになった。主題歌の作詞は西條八十氏で作曲は服部先生と決定した。
作詞は早くにできあがった。ところが曲づくりが進まない。映画会社は矢のようにせかしてくる。服部先生は苦悩を抱えながら所用のため大阪駅から国電(いまJR)に乗って京都へ向かった。満員だった。先生はヤミ屋の男共にかこまれて通路に坐り込んでいた。電車が吹田の辺にさしかかったころ、ふと顔をあげると窓いっぱいに真っ青な北摂の山脈のうねりが目にとびこんできた。とたんに先生の胸に、あの有名な前奏とメロディが湧きあがってきた。
若くて明るく希望に満ちた歌詞とともに、よどみもなくつぎつぎに浮かんでくる。しかし、この荒くれた空気の中で、のんきにドレミファが書けるわけがない。先生は、とっさに「ドレミ」を「123」と数字におきかえて書いていった。ヤミ屋のひとりが横からのぞきこんで声をあげた。
「オッサン、よう儲けとるなあ!」
名曲「青い山脈」の前奏も間奏も聞けば、はっきりわかる。この曲のリズムは国電の車輪がきざむ力づよい音そのものである。
ぼくはJRに乗って大阪から東へ向かうとき吹田の近くへさしかかると、かならず「青い山脈」をくちずさむことにしている。ふしぎにうまく歌えてくる。