羽賀寺の十一面観音立像(重要文化財)。随筆家の白洲正子氏や作家の五木寛之氏も、その艶麗な姿と佇まいを随筆に残している。

特集 福井県小浜市 御食国若狭

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"海のある奈良"の美仏を巡る

里山の集落の奥に樹々に囲まれて佇む羽賀寺。石段を上ると正面に本堂がある。寺は716(霊亀2)年に行基によって創建。十一面観音立像のほか、木造千手観音菩薩立像、木造毘沙門天立像も見事。若狭の文化の豊かさの象徴のようだ。

 若狭は「海のある奈良」といわれるほど寺が多い。小浜市内に寺は137カ寺、神社も同じほどあり、多くが奈良時代、平安時代から鎌倉時代の古刹だ。深閑とした山中の慎ましい集落の美仏に憧れて、訪ね歩く人が増えているそうだ。

 向かったのは小浜の市街地から遠くない羽賀地区。この集落にある羽賀寺[はがじ]には若狭の最高傑作といわれるカヤの一木[いちぼく]造りの十一面観音立像[りゅうぞう]が祀られる。本堂に入ると固唾を呑む。おぼろげな灯明に照らされた像は艶麗[えんれい]としか言いようがない。丈は約146cm、ほぼ等身大の像は平安初期の作と伝わるが、天衣の彩色が鮮やかに残っている。

 女帝の元正天皇の姿を写したというが、ただただ黙して見入るだけだ。弧を描いた長く細い眉、典雅な目鼻立ち、豊かな頬に長い腕。観音像の前に立つと、その艶やかさに感嘆せざるをえない。とても人間的な魅力を湛[たた]えた像で、内陣のすぐ間近で拝観できるのは若狭という土地の大らかさだろうか。住職の奥様の案内も気さくだったのが印象に残る。

正林庵の如意輪観音半跏像。像高約33cm、神秘的な微笑を帯びたやさしいお顔だ。「如意」とは、意のままに智慧や財宝・福徳をもたらすこと。(写真提供:福井県立若狭歴史博物館)

 羽賀寺の近く、北川が流れる堤を南へ2kmほど行くと小高い山を背に田園が広がる。ユネスコ記憶遺産に登録される『東寺百合文書[とうじひゃくごうもんじょ]』に記された東寺の荘園だった、太たらのしょう良荘だ。山際に寄り添う小さな集落の奥の正林庵に、如意輪観音半跏像[にょいりんかんのんはんかぞう]が安置されている。若狭武田氏に仕えた粟屋氏の念持仏であったと伝わり、戦国期の動乱で打ち捨てられていたこの観音像を村人が手厚く祀ったともいわれる。

 若狭で最も古いこの金銅仏は天平時代の作で、蓮の花の台座に腰をかけ、右脚を左脚に乗せて右手を頬に当てている。この美仏は過去4回盗難に遭い、その都度戻ってきた逸話があり、「甚兵衛観音」と村では呼ばれている。

 「庄屋の甚兵衛さんがある骨董屋を訪ねると“じんべいさん、じんべいさん”と呼ぶ声がする。目をやると盗まれた観音さんだったんで、甚兵衛が買い戻したんです。それから甚兵衛観音と呼ぶようになりました」と話してくれたのは、観音像を安置する正林庵の檀家総代、三嶋重徳さん。太良庄の人々が輪番[りんばん]で重要文化財の観音様を大切に守っている。

正林庵の如意輪観音は、太良庄地区18戸の村の人に大切に守られている。檀家総代の三嶋さんは「わたしらの誇り、心の支えです」と話す。

 若狭にはいくつもの川があり谷がある。その一つひとつの谷に寺や神社がある。小浜市街の南、姿が秀麗な多田ヶ岳を眺めつつ松永川を遡[さかのぼ]ると、山懐に若狭きっての名刹、明通寺[みょうつうじ]がある。征夷大将軍だった坂上田村麻呂が806(大同元)年に創建したと伝わり、深閑とした山中に佇む姿は、凛として端正だ。

 石段を登って山門を潜り、さらに長い石段を登り進むと本堂が姿を現す。その奥には杉木立を背にした三重塔。福井県下の建造物の国宝は、この明通寺の本堂と三重塔の2つのみだ。縁起によると、田村麻呂が討伐した死者を弔うために建てたといわれ、本尊には十二神将を従えた木造薬師如来坐像を祀る。

 本尊の左右には「深沙[じんじゃ]大将立像」と「降三世[ごうざんぜ]明王立像」の二体。深沙大将は玄奘三蔵を砂漠で守ったとされ、降三世明王は超力によってシヴァ神を仏教へと改宗させた。身の丈は約2.5mもあり、憤怒の形相は迫力がある。薄暗い本堂から回廊に出ると、素晴らしい風景が目の前に広がった。谷間から風が心地良く吹き上がり、深く呼吸すると心の中の塵埃[じんあい]がかき消されていくようだ。

 若狭小浜には、古き良き日本の風景が色褪せずに残っている。御食国の海、里山の佇まい。幾多の美仏は人々の変わらぬ信仰心に守られて千年以上の時を刻み続けている。

鬱蒼とした杉林を背に佇む明通寺の国宝の本堂と三重塔。早朝の朝日が差し込むと、その端正な美しさはいっそう際立つ。

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