エッセイ 出会いの旅

和田 竜
1969年大阪生まれ、広島育ち。脚本家・小説家。早稲田大学政治経済学部卒。2003年、オリジナル脚本「忍ぶの城」で第29回城戸賞を受賞。同作を小説化した『のぼうの城』で2007年に作家デビュー、累計200万部を超えるベストセラーとなり、第139回直木賞候補、2009年本屋大賞2位。2012年には映画も公開された(脚本も担当)。小説第4作である『村上海賊の娘』で2014年本屋大賞、第35回吉川英治文学新人賞、第8回親鸞賞を受賞。他の著書に『忍びの国』『小太郎の左腕』『戦国時代の余談のよだん。』がある。

芸備線・安芸矢口駅付近

 生後3カ月から14歳まで広島県に住んでいた。

 芸備線で広島駅から3つ目の安芸矢口という駅が最寄りの駅だった。僕の小さい頃の芸備線はボックス席がほとんどすべてで、親に連れられ広島市の中心部に出た帰りは、そのボックス席に腰を据えたものである。

 いい風景だったと思い出すのは、車内に持ち込める、うどん屋さんがホームにあったことだ。使い捨ての白いプラスティックの器に入れたうどんを車内ですするのだ。夕方、帰宅する会社員と一緒になった際、大人たちがうどんをすすっているのを何度か見た記憶がある。

 うどんは僕も車内で食べたことがある。車内であったかい汁物を食べるという貴重さもあってか、妙にうまかった。当時は車内で物を食う人が実に多かった。ちくわを肴にワンカップを飲む人や、冷凍みかんを必死に剥く人。車内はどこかアットホームな雰囲気に包まれていたように思う。

 安芸矢口の駅で降りると、我が家に向かうのに、太田川に架かった安佐大橋を渡っていかなければならない。

 実はこの太田川、水軍史においては結構重要な河川である。当時は安芸矢口駅の辺りまで海辺の雰囲気があったらしくー現在の安芸矢口駅は太田川を北にさかのぼった、だいぶ内陸の印象だー、駅の付近には河ノ内警固衆という水軍がいたのである。

 僕は城南中学校という名の学校に中二まで通っていた。

 この「城南」の「城」は広島城のことではない。中学校の北、太田川の西岸に小山があり、その一方が川に向かって崖をなしている。この小山にあったのが河ノ内警固衆の一人である香川氏の拠点、八木城であった。おそらくは戦となれば、海に出て戦い、終われば河をさかのぼり、城に帰ってきたのだろう。一種の港として河川を利用していたのだ。

 香川氏はもともと、安芸国の守護武田氏の家臣だ。それが滅ぼされるにおよんで、当時水軍を持たなかった毛利元就が喜んでこれを召し抱え、毛利家の重臣児玉家に支配させた。拙作『村上海賊の娘』に登場する児玉就英が「毛利家直属の水軍の長」とされる所以である。

 僕はこんなことを、小説を取材する過程でようやく知った。広島に住んでいた頃はまるで知らなかったのだ。

 毛利家の史料を読むと、同級生やご近所さんの苗字がごろごろ出てくる。吉川、小早川にはじまり香川、益田、牛尾、児玉等々、関東ではあまりなじみのないこれらの苗字は、毛利家の重臣か、あるいはそれ以前に中国地方で威を張った戦国大名大内家や尼子家の家臣の苗字である。

 先日、といっても数か月前だが何十年かぶりに芸備線に乗った。残念ながら車内に持ち込める、うどん屋さんは見当たらず、車両はボックス席でもなかった。

 安芸矢口の駅は、僕が子供の頃とさほど変わらないのが良かった。無骨なコンクリート造りのホームも健在だった。

 太田川に架かった安佐大橋を渡った。橋を渡り切り、土手を降りると、かつて家のあった場所に出るのだが、家はもうない。山陽自動車道の橋脚の土台になり果てている。この山陽自動車道を通すということで、借りていた借家群が取り壊されることとなり、以前から東京本社に戻れと言われていた父親が「いい潮だ」と引っ越しを決めたことから、僕は広島を離れ、東京に住むことになったのだ。

 広島の家があった地名は「川内」という。河ノ内警固衆と関連があるのかどうか、調べが及ばず分からない。太田川と古川という2本の河によってできた中州の土地なので、川内という地名が付いたとも聞いた記憶があるが本当かどうかは分からない。

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