湖南とは趣が異なる湖北の風景は淡々としている。湖水は透明度が高く、フィヨルドのような入り組んだ地形。正面は竹生島。野鳥の楽園でもある。

特集 滋賀県長浜市 長浜曳山祭

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湖北、長浜の豊臣秀吉由来の伝統の祭り

 近江は淡海とも書く。長浜は淡々とした北琵琶湖に寄り添う湖畔の町だ。堂々たる姿の伊吹山を間近に望む町には、江戸の商家や明治の洋館が数多く残る。年間300万人の観光客が訪れ、町おこしの成功例として各地から視察も絶えない。レトロモダンな黒壁スクエア界隈の佇まいは今や長浜のシンボルだ。

 建物は刻まれた歴史を残して、美術館やギャラリー、工房やカフェなどに姿を変えて町の活気を担っている。古い建物も過去や歴史ではなく、現在を生きている。そんな長浜に400年以上も大切に受け継がれてきた郷土の伝統が「長浜曳山祭」。その華麗さによって京都の祇園祭、岐阜の高山祭と並んで日本三大山車祭と称される。

 その曳山祭の一番の呼び物である子供歌舞伎は、石川県小松、埼玉県秩父とともに日本三大子供歌舞伎に挙げられる。国の重要無形民俗文化財で、ユネスコ無形文化遺産にも申請中である。長浜市曳山博物館の中山芳章さんが「長浜の歴史と文化そのものです」と話す曳山祭は、長浜の鎮守社・長浜八幡宮の例祭だが、起源は豊臣秀吉に由来する。

 長浜は1573年(天正元)年に秀吉によってつくられた。

町の東に鎮座する長浜八幡宮。社伝では創建は1069(延久元)年。秀吉は荒廃していた八幡宮を復興、祭礼を復活させた。これが曳山祭の起源といわれる。

秀吉が初めて城持ち大名になった地で、琵琶湖畔の「今浜」と呼んでいた浜に城を築き、城の東に城下町を整備し、信長の一字を当てて「長浜」と名付けたともいわれる。そうして誕生した長浜城の城下町は、「その後の城下町のひな形といわれています」と中山さんは言う。

 秀吉が城主だったのはわずか8年だが、善政を行い、軍略上の拠点にとどまらず、都市経営という視点で城下町を整備した。自治を町民に委ね、楽市楽座で商工業を奨励、年貢米も労役も免除、さらに商業港として長浜港を拓く。また荒廃していた八幡宮を復興し例祭を復活させた。これが曳山祭の起源だが、町にはこんな伝承が残る。

豊臣秀吉の長浜城は徳川体制とともに廃城になり、現在の城は犬山城などを参考に再建された。城内には秀吉時代を偲ぶさまざまな資料が展示されている。

 「秀吉公に待望の男子が生まれ、祝儀に砂金を各町に振る舞い、その砂金をもとに町々で曳山をこしらえたと言われています」と中山さん。祭りの初期は、太刀渡りという武者行列が主で曳山も小さく素朴だったが、江戸時代中期以降、今日のような絢爛豪華な曳山になる。そう変わっていく過程が長浜の繁栄の歴史と深く関係している。

 徳川時代に長浜城は廃城、町は彦根藩領になるが、彦根藩は長浜の自由な商工都市の気風を残した。もとより北国街道と中山道が交わる琵琶湖水運の要の地であり、明治時代には日本で5番目の官営鉄道が敷かれ、日本初の鉄道連絡船が運航。現存最古の駅舎が残る長浜鉄道スクエアは、そんな輝かしい町の歴史を伝えている。

長浜鉄道スクエアにある駅舎の館内には日本初の鉄道連絡船時代の資料などが展示されている。

現在の長浜のシンボル、黒壁スクエア。黒壁ガラス館はもとは銀行で、商工都市の長浜の繁栄を今に伝えている。

 地の利に加え、特産の浜ちりめん、絹や糸、ビロード、蚊帳などは江戸時代から全国的に知られ、町は活気に溢れた。その町の財力を背景に、町衆の進取の精神と心意気が、山車の華飾を競い、曳山祭を盛り上げていった。曳山は町ごとに13基、それぞれが誇りをかけて意匠も飾りも異なる。

 曳山博物館で曳山を間近にするとずいぶん大きい。高さ奥行が約7m、幅は約3m。黒漆に紅漆、金箔と細密な彫物。絢爛に華飾されたこの曳山の舞台で、頭に鬘[かつら]、顔を白粉[おしろい]で化粧した役者が浄瑠璃に合わせて歌舞伎を披露する。演じるのは5歳から12歳くらいまでの男の子たちで、長浜曳山祭の一番の呼び物「子供歌舞伎」だ。

 芝居も衣装も本格的で、子供たちの熱演に大勢の観衆はやんやの拍手喝采を送る。祭り本番は春4月。その頃の長浜の町中はシャギリ(お囃子)で祭り気分一色になる。

毎年4月15日、意匠を凝らした出番山組の曳山4基が長浜八幡宮境内に出揃う。太刀渡りや翁招きに引き続き、くじ順によって各組の子供歌舞伎が奉納される。

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