Essay 出会いの旅

Ichikawa Somegoro 市川 染五郎
1973年、9代目松本幸四郎の長男として東京に生まれる。屋号は「高麗屋」。1981年『仮名手本忠臣蔵』で7代目市川染五郎を襲名。歌舞伎界の若手花形の一人。美貌と若さに似合わぬ演技力で、古典歌舞伎の二枚目ほか、女方、敵役も演じ、上方歌舞伎の和事にも積極的に取り組む。

5月からは明治座「五月花形歌舞伎」に出演する。歌舞伎の舞台のほか現代劇、また「蝉しぐれ」などの映画、「妻はくの一」などのテレビドラマに主演。著書には『歌舞伎のチカラ』(集英社)、『瞳に「気品」を、心に「艶」を』(講談社)、新刊に歌舞伎の魅力を舞台の内側から綴った『染五郎の超訳歌舞伎』があり、多彩な分野で活躍中。

私の京都、そして大阪、神戸

 2012年の8月27日。国立劇場の舞台から転落し、大きな怪我を負い、関係者や多くのファンの方々にご心配をおかけしてしまいました。当初は再起も危ぶまれたのですが、幸い怪我から1カ月で病院を退院、その年の11月に再び仕事に復帰することができたのは、まことに不幸中の幸いとしか言いようがありません。
 復帰、初の仕事はNHKのBS時代劇です。 風野真知雄さん原作の『妻は、くノ一』で、その撮影のために東京から新幹線で松竹京都撮影所へと向かったのです。いつも乗り慣れた新幹線、何度となく通う京都であるはずなのに、この時ばかりはいつもとはちがう特別な感慨がありました。
 新幹線に乗るとたいてい居眠りをするのに、ずっと車窓を飽きずに眺めていた。普段なら気にも留めない、あまりに日常的で何気ない風景や、薄墨で描いたような遠くの山々、穏やかに光りかがやく海、のどかな田園、そして無数の人びとの営みが次々と車窓に映る。
 日本の美しい風景が次々と車窓を過ぎていく。目にするすべてが輝いて見えたのは、怪我から復帰し、ふたたび元気に仕事ができるという心からの喜びがそうさせたのでしょうか。そして雄大な伊吹山、広々とした琵琶湖がなんとなく「おかえりなさい」と、迎えてくれているような気持ちでした。
 もうまもなくすると京都。太秦の松竹京都撮影所のたくさんの懐かしい顔に会えると思うと、自然に気持ちがはやりました。京都撮影所でこうしてまた仕事ができるのが本当にうれしかった。撮影所のみなさんは相変わらず温かくて、激しくて、刺激的。おなじみの大覚寺のほか京都の各地、琵琶湖畔でも撮影し、久しぶりに美しい京都を堪能して仕事が毎日とても楽しかったのです。
 観光名所の京都の魅力とはまた違い、撮影所のある太秦近辺の飾らない素顔の京都はほんとうに居心地がいい。よく行く定食屋さんや喫茶店、カツラをつけ衣装のままサンダル姿で歩いていても、誰も振り向かない、このお構いのなさはじつに気楽です。
 歌舞伎役者ですから関西で一番なじみが深く、よく訪れるのもやはり京都。祖父(初代松本白鸚)や父(松本幸四郎)は、古くからおつきあいのある人やおなじみの店も多く、私も京都とはもう20年以上にもなります。役者としていろいろ教えられ、勉強させられ、芸を磨いてくれる、それが私にとっての京都でしょうか。
 そして、京都にくると必ず出かけるのが八坂神社近くにある「弓道場」。道場というほどではないけれど、そこで弓を射るのが楽しみなのです。姿勢を正し、呼吸を整えて矢を放つ…。とても静謐な時間で、精神を集中させるのにはうってつけの場所です。
 もちろん大阪や神戸も私にはとても魅力的な都市です。大阪はずいぶん昔のことですが、一度住んでみたいと本当にそう思っていたくらいです。荒事に代表される江戸の歌舞伎と異なり、上方の歌舞伎に登場する人物はどこか飄々としています。二枚目だけれどお金がない、あるいはお金持ちだがちょっと間が抜けている。そこがとても人間らしくて好きなんです。
 そういう上方の歌舞伎を演じるために、大阪で暮らし、大阪の風土に染まり、大阪の人の情や気分を血肉化できればと、そう思ったのです。でも、いつも思うのですが、大阪では、通りすがりの普通のご婦人でも、どうしてあんなにおもしろいんでしょう。
 一方、神戸の印象は素晴らしい夜景です。神戸で公演した日の夜、六甲山の山上から眺めた夜景は今も忘れません。夜の闇にちりばめられたおびただしい数の光のイリュージョン。「世の中にこんなに美しい風景があるんだ」とただただ魅了されました。いまだに、これまで見た最高に素敵な夜景だと思っています。
 この三都を私の印象で分けると、伝統と前衛が共存する京都、大勢でにぎやかに繰り出す楽しい大阪、一人気ままに過ごす神戸。それぞれ街の色が異なり、個性が際立っていていつも訪れるのを楽しみにしています。京都、そして大阪、神戸、これからも私にとってなじみ深くて、いつも新鮮な街です。

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