沿線点描【湖西線】山科駅(京都府)から近江塩津駅(滋賀県)

「石の文化」と「水の文化」を訪ねて近江を北へ

湖西線は、京都の山科駅から琵琶湖の西岸に沿って 湖北の近江塩津駅まで、約75キロメートルを走る。 比良の山々が車窓間近に迫り、琵琶湖が穏やかに広がり、 沿線には美しい景観が続く。歴史遺跡も多いが、 この旅では「美しい石積みの町」と 「生水[しょうず]の郷[さと]」を訪ねた。

列車は琵琶湖に寄り添うように走る。
(北小松駅から近江高島駅)

「穴太衆積」の町、坂本

 山科駅を離れた列車はすぐに長いトンネルに入り、抜けると風景がパッとパノラマのように広がった。琵琶湖だ。青々した湖面の向こうに、湖東の山々が薄墨で描いたように霞んでぼわっと見える。山紫水明の風景とはこういうのだろう。

 比叡山坂本駅までは約10分。比叡山の麓の駅である。そもそも坂本とは延暦寺の「坂下」の意味で、延暦寺の東の玄関だ。最澄の誕生地である。駅からずっと上りの緩やかな坂道が続く。振り返ると、坂道の先に琵琶湖が見える。大きな石の鳥居をくぐり、坂を上りつめたところが日吉大社。全国に3,800社の末社を擁する「山王さん」の総本山である。 

 坂本の町を包む空気は厳かで、建物を囲う石垣の石積みがとても美しい。延暦寺の里坊が50以上もあるこの界隈の景観は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、その美しさを際立たせているのが「穴太衆積」という巧みな石積みだ。「あのうしゅうづみ」と読む。坂本は、石工集団「穴太衆」の本拠で、遠祖は古代にまでさかのぼると言われている。

 「どう、石垣と白壁のコントラストがなんとも言えんやろ。美しいやろ」。穴太衆棟梁の粟田純司さんはそう言って町を案内してくれた。世界に誇る技術も今や粟田家だけである。穴太衆積というのは、自然石を組み合わせて隙間に詰め石をする。無造作に見えて、緻密に積み石を重ねた石垣は、実はコンクリート以上の強度があって、とても頑丈。加えて何よりも見た目が芸術的に美しい。

 「設計図なんてない。石の顔を見て、耳をあてて石の声を聞いて、石が行きたいところにもっていってやるんや」と粟田さん。織田信長はその高い技術に惚れて安土城の天守台を任せた。以後、豊臣秀吉や徳川家康などは、こぞって城の石垣を穴太衆に依頼した。坂本が「美しい石積みの町」と形容される由縁である。寺社だけでなく、坂本では民家の石垣までが美しい。そのせいか町の佇まいが引き締まって凛としている。

石積みに囲まれた門前町坂本の路地。放課後の時間は、子どもたちの恰好の遊び場となる。

比叡山の門前町として栄えた坂本は石垣の町。門前に建ち並ぶ里坊の白壁と石垣が描くコントラストが独特の景観を見せる。


穴太衆第十四代目石匠の粟田純司さん。「坂本には派手さは似合いません。坂本の町に育てられたから、今度は私が町づくりで恩返ししていきたい」と話す。


湖岸沿いの下阪本に残る「坂本城跡」の石碑。琵琶湖の水を城内に引き入れた豪壮な水城だったと伝えられる。

水が生まれる「生水の郷」、針江

 琵琶湖を右に眺め、左に比良の山々が車窓間近に迫る。比叡山坂本駅から新快速で約30分で新旭駅だ。安曇川によってできた扇状地が琵琶湖にせり出すように広々した平野をつくっている。石垣の町、坂本とは対照的に、ここ針江は「生水[しょうず]の郷[さと]」である。

 針江では湧水を、生水と呼ぶ。「生まれてくる水」という意味で、比良山系に降った雨が川になり、傾斜の緩やかな平野をゆっくりと潤し琵琶湖に注ぐが、一方で地下深く潜った水は伏流水となって再び「生まれてくる」。そんな生水と付き合う知恵が針江の家々には今も暮らしの中に残っている。「川端[かばた]」のある暮らしだ。「針江生水の郷委員会」の石津文雄さんに案内してもらった。

比良山系を背景に走る列車。(志賀駅から比良駅)

針江の集落を流れる針江大川。透明な川に梅花藻が繁茂して美しい。

 町のあちらこちらで生水が湧き出している。そして家々には川端がある。川端は生水を家に引き込み、湧水口の元池[もといけ]の水は飲料水や料理に使い、そこから溢れた壺池では野菜などを洗う。水を段階的に使い分ける仕組みで、それは暮らしのルールでもある。「宝の水は大切に使わなあかん、汚してはあかん、という知恵です」と石津さん。食器を洗った残りは魚の餌になり、家庭から外に出す水をきれいにしてくれる。

 集落には針江大川が流れる、といっても水路のような川幅だが、とにかく驚いた。水の透明度が尋常ではない。手で触れなければ水が流れているのが分からないくらい透明で、鮮やかな緑色の梅花藻[ばいかも]が流れに身を任せて揺れている。あまりの驚きように、石津さんはちょっと誇らし気に、「生水は私らの宝ものです」と言った。

 川端や水路は小さなたくさんの生命を育む場所にもなっているのである。「この川端という宝ものを子どもたちにしっかりと受け継いでもらえるようにと思っています」と石津さんは話す。針江の風景は、人と自然の関わり方をもの言わずに教えてくれているようである。
 湖国の深い歴史と文化の一端に触れる湖西線の旅だった。

針江の「川端」は、生活水として使ったあとも水を汚さずに川に戻すという、とてもエコロジーな暮らしの工夫。

川端の壺池。壺池の水は飲料や調理用に使うきれいな水。その周りの端池では洗いものをする。

針江の生水と無農薬で育った「針江げんき米」。

針江生水の郷委員会の石津文雄さんは、「この地区には生水の恩恵もあるのか、100歳近いお年寄りがたくさんいます。自然というのは人間にとって癒し効果がものすごくある。だから、自然とうまく付き合っていくことを大事にしたい」と話す。

もっと巡りたい風景 美しい「石積み」の巧み

石積みが美しい「鵜川の棚田」。(北小松駅から近江高島駅)

 近江国に特別の思いを抱いていた随筆家・白洲正子は『かくれ里』の中の「石をたずねて」で、「近江には古いものが、古いままの形で遺っており、それが私の興味をひく」と記している。坂本にも足を運び、その石垣の美しさや石積みの巧みさをあげ、そして「穴太衆」にも触れている。琵琶湖周辺には優れた石積みが多く見られるのは、きっと穴太衆の存在が大きいのだろう。坂本に近い「穴太地区」は、渡来人が石の技術を伝え古墳時代から石の文化が発達したところで、延暦寺の建立以後、坂本に多くの里坊が創建され一層の発展を見た。そんな穴太衆の石の文化の影響は、何気ない風景の中にも、見ることができる。

「鵜川の棚田」は、湖西線の車窓からも見ることができる美しい景観で、石積みが見事だ。聞けば農家の人が寄り合って石を積み上げて造ったようだが、穴太衆から石積みの技術が伝わっていたのかもしれない。湖北マキノの海津の湖岸も一見の価値があるほど見事な石垣となっている。江戸時代元禄期の頃、物産の集散地だった海津の浜の防波堤として築かれたもので、東浜に約670メートル、西浜に約500メートルに渡って残る石垣は、湖北を代表する風景となっている。

「穴太衆積」は「野面(のづら)積み」とも呼ばれ、自然石を積み上げる。大小の石の組み合わせが、リズミカルで美しい景観をつくる。

マキノ海津浜の湖岸の石垣。波除けや水害を防ぐために築かれた石垣は、何度も改修されている。

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