1868(明治元)年、室町に造られた旧能楽堂から移築された「金剛能楽堂」は京都御所の西、烏丸一条にある。この近くには、かつて室町幕府の「花の御所」があり、世阿弥らが能を演じたゆかりの地でもある。

特集 たぐいなき幽玄、夢幻の舞台芸術 能楽

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観阿弥の幽玄能、世阿弥の夢幻能

 京都駅から東に向かい、鴨川を渡って東大路を南に辿ると、樹齢900年の大樟[おおくすのき]の巨木が繁る新熊野[いまくまの]神社がある。室町時代、「今熊野」とも書かれた神社の境内で、大和の猿楽座を率いる父子が「今熊野猿楽」を勧進興行し、その歌舞に深く感銘した17歳の室町幕府将軍、足利義満は父子を召し抱えた。父は「観阿弥[かんあみ]」、12歳の美少年は「世阿弥[ぜあみ]」。今日の能の発祥の地といわれるのが、この新熊野神社の境内なのである。
 一般に能楽と呼ばれるようになったのは明治以降のことだが、それは能と狂言を指す表現で、それ以前は「猿楽の能」と称した。その源流は、奈良時代に「雅楽」とともに大陸から伝わった「散楽[さんがく]」という民衆の俗楽であった。宮中の式楽である「雅楽」に対して、散楽は神社の祭事や寺院の法会[ほうえ]で演じられる軽業や手品、傀儡[くぐつ](人形使い)、歌舞、音曲など種々の芸能で、平安時代には各地に広がり民衆を楽しませた。

平安時代末に後白河法皇によって創建された新熊野神社。600年以上も前に観世父子がこの境内で演じた「今熊野猿楽」を平成25年に復活させるという。

佐渡島の正法寺に伝わる「神事面べしみ」。干ばつの年に、世阿弥がこの面をつけて舞うと大雨になったという伝承が残る。能が完成する以前の面と思われ、鎌倉時代後期に作られたものと言われる。(佐渡市 正法寺蔵)

 この散楽の中の、滑稽味のある物真似芸を「猿楽」といい、やがて物語性を備えたものを「猿楽の能」と呼んだ。本来、能とは芝居のことで、猿楽の滑稽芸を洗練させ極めたものが狂言である。猿楽の能でとりわけ優れていたのは、近江の日吉大社に仕える近江猿楽と、奈良の興福寺などに仕える大和猿楽だが、京洛で人気があったのは優雅な近江猿楽。大和猿楽の四座(結崎[ゆうざき]座、円満井[えんまい]座、坂戸[さかと]座、外山[とび]座)の悲願は京での人気を得ることだった。

江戸時代初期の『観能図屏風』八曲一双の部分。豊臣秀吉が宮中で開催した展覧能の場面を描く。中庭に舞台が設けられ御簾の奥に天皇、右手奥の広縁で扇を開いているのが秀吉のようで、自らも能を舞ったと思われる。観客には西洋人の姿も見える。(神戸市立博物館蔵)

 観阿弥はそこで物真似芸が中心の大和猿楽に新風の謡[うたい]と、幽玄(優美、超越的な美しさ)な舞いを取り入れた新しい猿楽の能を創作する。観阿弥の幽玄の歌舞は、たちまち京の人々を魅了していく。この猿楽の能の幽玄をさらに深め、高度な精神性を持った舞台芸術へと導き、大成したのが世阿弥である。
 世阿弥は物語を、現在という時間と場所の拘束から解き放ち、故人の霊が現れて昔を物語るという超現実的な「夢幻能」という様式を完成させた。そして『風姿花伝[ふうしかでん]』や『花鏡[かきょう]』などの能芸伝書を多く残し、能を「花」に例えて説いた。「花は散るゆえにこそいっそう愛惜され、散るからこそ再び咲く」(『風姿花伝』花伝第七別紙口伝)。戦国の世とはまさに、その花であった。「この世は夢、幻のようなもの」。織田信長は好んで「敦盛[あつもり]」を舞い、絢爛豪華な桃山文化のもとで能楽は隆盛する。能舞台の様式が確立し、装束も豪奢になり、能面を打つ名手を多く輩出するのもこの時代である。

世阿弥著『花鏡』の「奥段」(部分)。この本は世阿弥の娘婿の金春禅竹による1437(永享9)年の写本で、有名な「初心不可忘(初心忘るべからず)」の言葉が記される。(生駒山 宝山寺蔵)

世阿弥が晩年に配流された新潟県佐渡島、大膳神社の能舞台。江戸時代末に再建されたもので、現存する野外の能舞台では貴重な建造物の一つ。

桃山時代に描かれた『能楽図帖』の世阿弥作「江口」の一場面。面と装束、作り物と呼ばれる船に見立てた大道具まで、この時代には現在に到る能楽の基本が既に確立されていたことが伺える。(国立能楽堂蔵)

 その後の豊臣秀吉も大和猿楽の四座に扶持を与えるほど能、狂言を手篤く庇護し、徳川の時代には四座に喜多一流を加え、宮中の「雅楽」に対抗して「能楽」を幕府の式楽とした。時代の節目ごとに隆盛と衰退があったが、今日まで約600年、能楽は今や日本の伝統芸能の枠を越え、「たぐいなき人類の文化遺産」の一文が付記されてユネスコ世界無形文化遺産に登録されている。

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