内坪井旧居の洋室には、漱石に関する写真や資料などが展示されている。

特集 文豪への才気を醸成した森の都 漱石の熊本の旅

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漱石が降り立った森の都、熊本。 山路[やまみち]を登りながら、こう考えた。知に働けば角[かど]が立つ。情に棹[さお]させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 『草枕』 より

 1896(明治29)年4月13日。鹿児島本線「池田停車場」に、14時3分の汽車で29歳の英語教師が降り立った。熊本駅の一つ北、現在の上熊本駅前に彼の銅像が建っている。夏目金之助、若き日の夏目漱石である。駅前の大通りを隔てて、なだらかな坂が丘の上に続いている。旧制第五高等学校の英語教師として着任した漱石は、人力車で坂を上り、京町台にさしかかる。この時、眼下に広がる熊本の町を初めて目にした漱石は、「熊本は森の都だなあ」と口にしたと伝えられる。

肥後熊本を象徴する熊本城。天守閣は西南戦争の動乱で焼け落ちたが、1960(昭和35)年に再建された。漱石は天守を見なかったが、「午砲打つ 地城の上や 雲の峰」と熊本城を俳句で詠んでいる。

 森の都はおよそ百年の歳月で様変わりしたが、当時の姿は十分に想像できる。目線の遠くにうっすらと横たわるのは、阿蘇の外輪山の山並みだ。そして坂を下ったところに、熊本時代に6回も転居を繰り返した漱石が最も長く住んだ内坪井の家がある。現在、記念館として一般公開されているこの旧居で漱石は1年8カ月を過ごした。

熊本城にも近い立派な門構えの邸宅には「夏目金之助」の表札が掛かっている。当時の敷地は約500坪、部屋数は大小9部屋のほか、馬丁小屋もある。庭は雑木林のようだ。座敷の床の間には漱石が一貫して理想としたテーマ「則天去私[そくてんきょし](自我の執着を離れて自然の道理に従う)」の軸(複製)が掛かっている。すり減った廊下、柱に刻まれた小さな傷…、ほとんどが当時のままで、廊下の奥からふいに漱石が現れるのではと、不思議な錯覚にとらわれる。

 漱石はロンドンに留学するまでの4年3カ月を熊本で過ごしている。この頃、小説はまだ書いていないが、盟友、正岡子規の指導で俳句をたしなみ、俳人としては著名だった。生涯に約2500句を残しているが、その中の約1000句が熊本時代に詠まれた句だ。主に叙景句で、熊本時代の漱石の足跡を俳句でたどれるほどだ。高名な物理学者で、五高時代の教え子であった寺田寅彦は漱石に俳句を習い、心底漱石に傾倒し、家に入りびたっていたという逸話が残る。

熊本大学のキャンパス内にある「五高記念館」。赤レンガ造りの重厚な校舎で、漱石が赴任する7年前の1889(明治22)年に建てられた。国指定重要文化財。

漱石が教えていたであろう当時の教室が再現されている。

 第五高等学校は現在の熊本大学で、キャンパス内には赤レンガ造りの威厳のある洋館の校舎や当時の教室が保存され、熊本時代の漱石を知る貴重な資料が保存されている。漱石が作成した英語の試験問題も残っている。それらの資料から浮かび上がる漱石像は、右腕を額にあてがい、物思いにふける神経質な晩年のイメージとは異なる。面倒見がよく、活発で寛大な人柄が学生たちに慕われ、教員総代や漕艇部の部長を務めた漱石の姿である。

 漱石は、妻や友人とよく九州各地を旅した。なかでも1897(明治30)年の年末から東大時代の同期で五高の同僚だった山川信次郎と出かけた玉名郡小天[おあま]村の小天温泉への旅、さらに1899(明治32)年9月の阿蘇登山、この2つの旅が後に文豪・夏目漱石の代表作『草枕』、『二百十日』に結実する。小天温泉への旅の道程は「草枕の道」として整備され、『草枕』冒頭の「山路を登りながら、こう考えた」という、その山道の面影が変わらずにある。

 その熊本時代に漱石は、東京の正岡子規に宛てた手紙に心境を記している。要約すると「教師を辞めて文学三昧の生活を送りたい」。それは文学一筋への意思表明ともとれる内容だ。

「草枕の道」の鎌研坂(かまとぎざか)。息も上がる急な坂道で、そんな難解なことをよく考えられたものだ。

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