Blue Signal
September 2008 vol.120 
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北新地駅 駅の風景【北新地駅】
商都大阪の活力を生み出す街
「キタ」といえば、今でこそ 大阪を代表する繁華街でビジネスの中心地だが、 明治の初めまでは人も住まない湿地帯だった。 知られざる「キタ」の歴史を訪ねて、 北新地駅の周辺を散策した。
梅田のステンショの開設で変貌した梅田
 地下に設けられた JR東西線北新地駅を地上に出ると、国道2号線が東西に走っている。道の北側がビルが林立する梅田である。梅田は今日でこそ大阪を代表するビジネス街だが、明治の初期まで辺り一帯は畑や湿地が広がり、泥田を埋めたことから「埋め田」と呼ばれていた。ところが1874(明治7)年にこの地に「梅田のステンショ」と親しまれた初代大阪駅ができたのを契機に、一帯は劇的に様変わりする。街は大阪の近代化とともに発展しつづけ、今も新たな開発でその姿を刻々と変えている。梅田東側の、御堂筋と国道が交わる梅田新道の交差点は日本の大動脈の中継点でここを起点に、東へは国道1号線、西へは国道2号線に分かれる。

 交差点より北東側が曽根崎で、路地を少し入ると露天神社[つゆのてんじんじゃ]がある。ビルと飲食店に囲まれた境内は、終日多くの人が気軽に通り抜ける。近松門左衛門の戯作『曾根崎心中』の舞台であり、曽根崎新地の遊女お初と醤油屋の手代徳兵衛との悲恋の物語にちなんで、「お初天神[はつてんじん]」とも呼ばれる。社伝では、創建は6世紀に遡り、曽根崎界隈は曾根州と称する孤島だったようだ。石ころだらけの荒れ地を曾根という。

 露天神社は梅田、曽根崎の産土神[うぶすなしん]で総鎮守である。露天神の名は、祭神の菅原道真公が太宰府への左遷の途中、梅田の西の福島に滞在した際に太融寺に参拝して詠んだ無念の一句、「露と散る涙は袖は朽にけり 都のことを思ひ出づれば」に由来する。
 
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梅田新道の高層ビルから西方面を望む。真下に見える国道2号線を挟んで左側のビルが密集している一帯が大阪屈指の繁華街・北新地で右側は高層ビルが並ぶ梅田方面。
イメージ 国道1号線が国道2号線へと変わる、梅田新道の交差点。この真下をJR東西線が走っている。
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国道2号線から少し入った場所にある露天神社は、近松門左衛門の『曾根崎心中』の舞台でもある。高層ビルの谷間にある、一涼を呼ぶオアシスの佇まい。1300年以上の歴史をもち、梅田・曽根崎の総鎮守として、時代を越えて大阪北の変遷を見守り続けている。
地図 宮司の吉澤克規さんは「お初天神の名でみなさんに親しまれています。朝6時の開門から夜12時の閉門まで、参拝客のほかに大勢の人が通り道にしたり、休憩に…と境内をいろいろ利用されてます。みなさんに親しまれて道真公も喜んでおられることでしょう」と話す。
地図
地図 JR東西線・北新地駅。ビジネス街にも繁華街にも近い。
 
元禄時代に開かれた遊興の街、北新地
 北新地駅の南側が通称、北新地と呼ばれる飲食店街である。東を御堂筋、西を四ツ橋筋、南を中之島の北を流れる堂島川に挟まれた一帯を指し、新地本通を境に北が曽根崎新地、南側を堂島という。ここは東京の銀座と並ぶ繁華街で、高度成長期の頃には6000軒を超える飲食店がひしめいていたという。 

 夜の帳が降りると華やかにネオンが灯る北新地は、江戸時代は元禄の頃に開かれた新開地で、今の新地本通はもとは蜆川[しじみがわ]という川が流れていた。この蜆川と堂島川に挟まれた中洲が堂島である。北新地の真ん中に川があったとは想像もつかないが、新地本通に設けられた蜆橋跡の碑がその名残で、桜橋も蜆川に架かる橋の一つだった。

 堂島界隈は江戸時代には、全国の大名の米の蔵屋敷が建ち並んでいた。各藩は余剰米を堂島の米市場で競売して藩の財政を支えた。この堂島の米市場は、先物取引の世界で初めてのビジネスモデルとしても知られている。雑魚場[ざこば]の魚市場、天満の青物市場と並び、日本の物流、商品経済を支えたのが堂島である。

 淀屋橋に名を残す淀屋も米市場で財を成した豪商の一人だが、今では米市場も蔵屋敷も豪商屋敷も跡地を示す石碑があるだけだ。堂島が島でなくなり、蜆川も姿を消して現在のような北新地になったのは1909(明治42)年の「北の大火」以後である。焼け落ちた家々の瓦礫で蜆川は埋めつくされ、そして新たに整備し直されたのである。

 堂島の名の由来は、四天王寺の御堂の一部が、台風で流され漂着した所が名の起こりとする説もあれば、薬師堂があったので堂島の名がついたともいわれる。北新地界隈をぶらりと散策すると、繁華街の向こうに意外な「キタ」の素顔が見えてくる。
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堂島川沿いに建つ堂島米市場跡記念碑。各藩の余剰米が全国から集積し、ここで競売にかけられた。市場は活況を呈し、まさに「天下の台所」と呼ぶにふさわしい賑わいぶりだったという。
イメージ 北新地から御堂筋を挟んで東側、西天満の裁判所の南西角には佐賀藩蔵屋敷跡の碑がある。蔵屋敷は各藩の余剰米や特産物を売るための出先機関だが、江戸時代、水運の良さから堂島川周辺の河岸には、各藩の蔵屋敷が密集していた。
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四ツ橋筋に面する高層ビルの北東角にあるミラーガラスに覆われたモダンな堂島薬師堂。「堂島」という地名はこの薬師堂のある島(中洲)であったためとする説もある。
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かつて蜆川が流れていた、現在の北新地本通。1909年の大火の際に焼け落ちた瓦礫で埋められ川は姿を消したが、それまでの堂島は堂島川と蜆川に挟まれた中洲だった。 本通にはかつて蜆川に架かっていた蜆橋の碑が建っている。
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