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September 2008 vol.120 
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白く可憐な花の後、褐色の実を結ぶそば。秋に穫れるその実を粉に挽き、打つそばは香り高い旬のあじわいとされている。医師として地域医療に貢献する傍ら句作に励み、 「諷詠[ふうえい]」同人としての足跡を残した鷹津冬弘[たかつふゆひろ]の句とともに、郷土色豊かなそば文化をひもといてみた。
救荒食糧として暮らしに根づく
 タデ科の一年草に分類されるそばは、日本人にとってなじみ深い穀物のひとつである。原産地については諸説あるが、近年の研究によると中国南部、雲南省地域がそば栽培の発祥地と考えられ、日本へは朝鮮半島を経て伝わったとされている。文献としては、『続日本紀[しょくにほんぎ]』にある722(養老6)年7月19日に元正天皇が発した詔[みことのり]が最古とされ、飢饉の対策にそばを植えるよう奨励する記述から、奈良時代にはすでに救荒作物として栽培されていたことがわかる。「そばは75日」といわれるように、生育期間は他の穀物に比べ極めて短い。また、冷涼な気候でもよく育ち、土壌を選ばないため、さまざまな土地で作付けされ、人びとの暮らしを支えてきた。

 そばという名は、山の険しい所や崖を意味する「岨[そわ]」が転訛したものとされ、またそばの実が三角錐形のため、尖ったものという意の「稜[そば]」が語源とも考えられている。『本草和名[ほんぞうわみょう]』(918年頃成立)にはそばの和名として「曽波牟岐」の字があてられ、「そばむぎ」と訓読する。さらに、「久呂無木[くろむぎ]」という異名もあった。古来そばは麦に例えられ、そのため「むぎ」の字がつけられたという。現在、そばといえば細長い麺をさすが、このそば切りが考案される以前は、粒食もしくはそばがきなどの粉食が中心であった。挽いた粉を練り延ばして線状に切るという食べ方が普及するのは江戸時代からとされる。
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そばは茎の先端に小さな白い花を多数咲かせ、6mmほどの黒褐色の実をつける。刈り取られた玄そばの殻をとって甘皮ごと挽いた挽きぐるみの粉は黒みがかったそばになり、出石そばの特徴となっている。
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新蕎麦に出石の言葉やさしかり  鷹津冬弘
秋の実りの情趣を詠う
 そばには収穫の時期によって呼び名が分けられており、夏そばと秋そばとがある。夏に播種して秋に収穫する秋そばは、香りや色調、味において夏そばに勝るとされる。昔からそば好きは、秋に収穫された玄そば(殻付きの実)が粉に挽かれ、みずみずしい初もののそばとして出回るのを心待ちにした。現在でも9月中旬を過ぎると「新蕎麦」の張り紙を出す店もあり、秋の実りを食する気持ちは「新蕎麦」、「走り蕎麦」などの季題として、多くの句に詠まれている。

 鷹津冬弘は、1930(昭和5)年兵庫県姫路市に生まれた。1957(昭和32)年に神戸医科大学を卒業。精神神経科の医師として勤務医生活には飽きたらず、1965(昭和40)年には当時としては先駆的といえる精神科の外来診療所を神戸に設立した。以来、地域医療の一端を担い、数多くの患者からの信頼を集めた。1982(昭和57)年、NHK大阪文化センターの俳句講座に入門。俳誌『諷詠』主宰の後藤比奈夫に師事し、忙しい診察をやり繰りしながら熱心に句作に励んだ。その作風は、豊かでやわらかな感性を土壌に、医家としての機知に富んだ写生を特徴とした。

 冒頭の句に登場する出石は、但馬の小京都と呼ばれる山間の城下町である。鷹津家は出石藩の武士を先祖に持つ家系であり、作者は縁深い出石の町を何度となく訪ねていたそうだ。新そばの季節の町の情緒を郷愁とともに詠った佳句は、1995(平成7)年刊行の処女句集『花の館[たち]』に収められている。
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郷土が育むそば食文化
 そば処として知られる出石には、名物を求め、関西はもとより全国からそば好きが訪れる。出石そばといえば、数枚の白磁の出石焼の小皿にそばを盛り、薬味とつゆを添える皿そばをさす。1706(宝永3)年、出石藩主松平氏と信州上田の仙石氏がお国替えとなり、その際そば打ち職人を帯同したのが出石そばの起源となった。その後、出石焼が藩の産業として奨励されたことと相まって、この地独自の様式が定着していった。

 出石そば300年の伝統を受け継ぐ「南枝[なんし]」は、その祖先が仙石氏家臣とともに随伴し、この地に最初のそば店を創業。今日の出石そばの基礎を築いたとされる。14代目の店主大倉英明さんによると、出石のそばはやや色黒の田舎そば。山芋、卵などの薬味とのバランスを考えて、つゆはやや辛口が特徴という。「そばはシンプルな食べ物だけに、打つ時の微妙な水分調整や茹で時間の見極めが大切です」。生地の仕上がりも気温や湿度によって異なるため、その日の具合を手の感触で確かめながら、元祖出石そばののれんを守る。土地に根づく素朴な味は、時代を経ても変わることのない故郷のぬくもりを伝えている。
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出石のシンボルとして、城下町の風情に溶け込むように建つ辰鼓楼。1871(明治4)年、旧三の丸大手門脇の櫓台に建設された当時は、1時間ごとに太鼓で時を告げていた。
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出石そばの歴史とともにのれんを守る、大倉家に伝わる屋号の由来が記された「改姓事由書」と江戸時代の小皿。「南枝」とは、中国の文学書『文選』所収の故郷を想う詩にちなんで藩主から与えられたという。
 
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