Blue Signal
July 2006 vol.107 
特集
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うたびとの歳時記
鉄道に生きる
花に会う緑を巡る
特集[古代と現代をつなぐ丹後の伝承] 伝説・伝承に彩られる丹後半島
伊根に伝わる浦島伝説「浦嶋子」
舞い降りた天女、二つの「羽衣伝説」
京都府の最北端、握りこぶしのように
日本海にせり出した丹後半島には、
古くからの伝承が数多く残る。
丹後半島の歴史をひも解けば、
そこには語り継がれる物語と
古代丹後国との関係が見えてくる。
人々がさまざまに言い伝えてきた
物語のルーツと舞台を訪ね、丹後半島を巡った。
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画聖・雪舟も描いた「日本三景」の一つに挙げられる天橋立。伊射奈藝命がつくった天に昇る巨大な梯子で、もとは天に聳えて直立していたが、伊射奈藝命が寝ている間に倒れて現在の姿になったと伝わる。
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天橋立は山上から眺めるのが一番よい。波静かな外海の宮津湾と内海の阿蘇海を二つに割いて、白砂青松が延びる。和泉式部の娘、小式部内侍[こしきぶのないし]が『小倉百人一首』のなかで、この地へはまだ行ったことがないと憧憬を込めて詠み、江戸の頃より日本三景の一つとして名高い。その姿は、北側の傘松公園から股覗きをすると天に舞う白い架け橋に見え、南側からは飛龍観といい天に昇る龍の姿にたとえられるが、『丹後國風土記』逸文によると「伊射奈藝命[いざなぎのみこと]が天と地を往来するための梯子で、伊射奈藝命が寝ている間に倒れて天橋立になった」という。

丹後半島一円には神話や伝承が数多く残る。丹後半島の西に間人[たいざ]という町がある。聖徳太子の生母で穴穂部間人[あなほべのはしひと]皇后は、蘇我・物部の戦を避けてこの地に逃れ、後に大和に戻られたので「退座」と呼ばれるようになったという伝承や、聖徳太子の異母弟である麻呂子王[まろこおう]の三鬼の退治にまつわる話も伝わっている。二鬼を成敗し、一鬼を間人近くの「立岩[たていわ]」に封じ込めたという。

また、小野小町と静御前はこの地の出身であるとされ、「丹後七姫」に数えられる。『山椒大夫』の安寿と厨子王や大江山の酒呑童子など、史実もとりまぜて枚挙に暇がない。そして、昔話で親しまれる「浦島太郎」や「天女の羽衣伝説」は、ここ丹後がルーツであるともいわれる。

天橋立を有する宮津市の北、舟屋で有名な伊根町の新井崎[にいざき]には「徐福伝説」が伝わる。地名のイネは稲に通じ、古代に大陸から稲作がもたらされた言い伝えにちなむと伊根町誌に記されている。地形は急峻で幾段にも棚田が築かれている。海を望む切り立った断崖上にその徐福を祀る新井崎神社があった。足元はゴツゴツとした大きな黒い火山岩が重なる海岸だ。町の郷土史家、石倉昭重さんは「ここ新井崎が徐福上陸の地です」と語る。

秦の時代、司馬遷によって著された中国の正史『史記』では、徐福は「斉の国(現在の山東半島の南)の人で、身分は秦の始皇帝に仕える方士[ほうし]」となっている。方士とは呪術や占術、医薬、天文など森羅万象、諸学に通じた者で、なかでも徐福は始皇帝の信頼がもっとも厚かった。始皇帝の命により不老長寿の薬を求めて「童男童女三千人、五穀の種子、百工(さまざまな技術)」を伴い、不老長寿を体得した神仙(仙人)が住む、遥か東方海上にあるという三神山をめざし、船出したという。紀元前219年のことだ。

大陸から海流に乗って徐福一行が辿り着いたのが新井崎だ。「このとき徐福がもたらしたのが稲作技術や鋳鉄の技術、漢方医学や神仙思想です。ここから東方の海に浮かぶ冠島[かんむりじま]と沓島[くつじま]は神仙思想の仙人が住む島です」と石倉さんはいう。そして、『史記』は徐福のその後をこう記している。「…(その地で)王となり帰って来なかった」と。

徐福が実際に新井崎に上陸したかどうかは定かではなく、伝説も日本各地に残るが、石倉さんが強調するのは、徐福が渡来したとされる時期が丹後半島の文化の黎明期(弥生時代)と重なる点だ。丹後半島には、日本海側で最大級の遺跡や、王墓を想像させる古墳が次々に発見されている。網野銚子山[あみのちょうしやま]古墳や神明山[しんめいやま]古墳は「他地域と比べても傑出したもの」という。

峰山町の大田南5号古墳からは、「青龍三年」の紀年銘のある日本最古の鏡が出土している。青龍三年は魏の年号で西暦235年のこと。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の国に使節を遣わす4年前、つまり邪馬台国以前に丹後国は大陸と交流していた可能性が考えられるという。鉄器やガラス製品など中国大陸の遺物も大量に出土し、丹後国に強大な勢力があったことを示している。

こうして徐福伝説の神仙思想や、丹後半島の歴史をひも解けば、この地に残る伝承との関係が見えてくる。
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新井崎は地形が急峻で、僅かな平地に集落があり、千枚田といわれる棚田の景観が広がる。この美しい棚田は徐福がもたらしたという稲作技術の恩恵だろうか。沖には冠島と沓島が浮かぶ。
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与謝野町の施薬寺には与謝蕪村の『方士求不死薬図[ほうしふしやくをもとめるず]』が残されている。蕪村が丹後に遊んだ折、徐福伝説を聞き描いたものとされる。
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『方士求不死薬図』は六曲屏風一双で、左隻には銭をくくりつけた棒を担ぐ共の者を従えた徐福が描かれ、右隻には網が掛けられた貴重な壼の傍らに座る神仙(仙人)が描かれている。
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丹後半島は国内でも有数の古墳・古代遺跡が点在し、伝説や伝承が数多く残る。
(1)和泉式部隠棲地
(2)穴穂部間人皇后伝説
(3)麻呂子王鬼退治伝説
(4)小野小町隠棲地
(5)静御前生誕地とされる
(6)安寿と厨子王伝承
(7)細川ガラシャ幽閉の地
(8)酒呑童子伝説
(9)浦島太郎伝説
(10)天女伝説
(11)徐福伝説
〈丹後七姫とは、穴穂部間人皇后・小野小町・静御前・安寿・細川ガラシャ・乙姫・天女の七人をいう〉
伝説・伝承に彩られる丹後半島
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新井崎神社には産土神(うぶすなかみ)として徐福が祀られている。徐福はこの地で霊薬とされるショウブと黒茎のヨモギを手にしたという。
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不老不死の仙薬を求めて、東方の海上に船出した徐福一行が漂着したとされる「ハコ岩」と呼ばれる新井崎の海岸。
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丹後半島の北端、断崖の経ケ岬から東方の海上に浮かぶ冠島(かんむりじま:右)と沓島(くつじま:左)。ともに神聖な島で、伝説では不老不死の仙境を求めた中国の神仙思想でいう「はるか東方の海上にある蓬莱の国(島)」ではないかとされる。
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