Blue Signal
July 2006 vol.107 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
花に会う緑を巡る
うたびとの歳時記 夏には欠かせない小物として、今も愛され続けている奈良団扇。
手の動きにそって、
やわらかな風を生み出す「団扇[うちわ]」。
夏の暑さをしのぎ、ひとときの涼を呼ぶ。
祭りや夕涼みを演出する小道具として、
また、古くはかまどの火を
扇ぐためにも用いられ、
日本人の暮らしになじんできた。
俳句を季節のめぐりのもとにある詩歌と
位置づけた高浜虚子は、
団扇が彩る夏の風景を鮮やかに詠っている。
虚子の目に写った、季節の風物詩の
歴史をひも解いてみた。
権威の象徴から、涼を呼ぶ実用品へ
団扇の原型は、古墳時代に中国から渡来した「翳[さしば]」と考えられている。翳とは、団扇の柄を長くした形状のもので、その字が示すように陽ざしや人目を遮るという意味を持ち、「かざす」ための用具であった。古代朝廷の即位の儀礼などに使われ、『延喜式』(905〜927年)には、「大翳」「小翳」などの名がみられる。高松塚古墳の壁画に描かれた女子像も、この小型の翳を持つと考えられている。中世の公家や役人、僧侶の間でも、顔を隠して威儀を示す道具として用いられたという。材料は古くは名のごとく、鷹の羽を差したり、木の葉や絹を張ったものなど多様であった。

その後、団扇が大きく発展するのは、竹骨と紙を材料とするようになった室町時代末期とされる。枠や中央の棒で素材を固定していた従来の団扇と異なり、放射線に開く密な骨によって素材に和紙が多用され、軽くしなやかな団扇が作られるようになった。江戸時代には、各地で特色ある団扇が産出され、その用途も夏の暑気を和らげることから虫払い、蛍狩りにまで広がりをみせる。さらに、扇面に施す絵や模様、柄の部分の装飾などにも工夫を凝らすようになり、見て楽しむ美術品としての要素も兼ね備えていった。空調のいきとどいた現代、その実用面での役割は薄れつつあるが、団扇の持つくつろぎと涼感は、夏の暮らしに心地よい風を届けている。
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正倉院模様の鳳凰や花喰い鳥、奈良の鹿や塔が精巧に彫り刻まれた色鮮やかな団扇は、扇ぐのが惜しいほどの優美さ。
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丸亀から仕入れる良質の竹骨、伊予産の手漉き和紙を材料に、製作の各工程は、一家全員の分業で行われている。
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1690(元禄3)年に発行された生業図典『人倫訓蒙図彙[じんりんくんもうずい]』の巻五には「団[うちわ]師」が描かれ、「奈良団は春日の社人[しゃにん]の中にこれをつくる」とある。(大阪府立中之島図書館所蔵)
手に當[あた]る五色團扇の赤を取る 虚子
「ホトトギス」に流れる伝統俳句の精神
明治・大正・昭和の三代にわたり、俳壇の実力者として活躍し、近代俳句の発展に大きな功績を残した高浜虚子。生涯を通じ客観写生こそが俳句の真髄であると唱え、花鳥諷詠[かちょうふうえい]の俳句理念を確立したことで知られる。1874年(明治7)年2月22日、愛媛県松山市に旧松山藩士池内[いけのうち]家の末子として誕生。8歳の時、祖母方の家系を継いで高浜の姓となった。本名は清[きよし]。俳句の師、正岡子規によって名づけられた虚子という雅号は、本名の読みに別字をあてたものである。生まれてまもなく、一家は父の帰農にともない、松山郊外、風早西ノ下[にしのげ]に移り住んだ。虚子は、幼少時代を周辺の自然にとけ込み、山川草木を目に焼きつけながら過ごしたという。この西ノ下の風光は、虚子の感受性や美意識の基本をなす原風景になったとされ、季の織りなす美を十七文字に表現する俳句の方法論に深く影響したと考えられている。

1891(明治24)年、虚子は同郷の先輩子規と出会い、作句を開始する。この出会いこそが虚子の一生を決定づけ、また俳壇の大家を生むきっかけとなった。1897(明治30)年に柳原極堂[やなぎはらきょくどう]が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」を引き継いだ虚子は、翌年自らが編集・発行人となって「ホトトギス」を東京で刊行した。以後、有季定型を重んじ、俳句らしいリズムや情趣を大切にする俳句観は、「ホトトギス」1世紀余年の歴史とともに今も脈々と受け継がれている。
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伝承の技が生み出す“用の美”
扇いで涼を得る以上に、見た目に涼やかな団扇がある。天平模様や古都の風物を透かし彫りした「奈良団扇」である。古くは、春日大社の神官の手内職として作られたとされるが、当時は紙に柿の渋を引いた丈夫な「渋団扇」であった。奈良団扇の身上である風雅な透かし彫りに進展するのは、江戸時代の中頃という。現在、奈良の伝統工芸品に指定されている透かし彫り団扇であるが、その技を伝承するのは、奈良市三条通に店を構える「池田含香堂[がんこうどう]」ただ一軒。きっかけは、明治の初めに2代目池田栄三郎氏が、かつて使われていた透かし彫りの用具一式を発見し、衰退していた技法の復興に努めたことに始まる。「小割[こわり]の差柄[さしえ]」と呼ばれる細かな骨組み、扇面いっぱいに紙を貼る「元貼り」など、細部に風を送る道具としてのこだわりがのぞく。そして、陰陽五行にちなんだとされる赤・黄・白・茶・水色の5つの彩色も、創業当時から守られている。

冒頭の句に登場する「五色団扇」が奈良団扇のことであったかどうかは定かではないが、虚子の心をとらえたのは、色とりどりの団扇の中でも際だつ赤であった。何気ない夏の日常を印象的に写しとったこの句は、「ホトトギス」が650号に達したことを記念した句集『六百五十句』(1955(昭和30)年)に収められている。
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小諸に疎開していた頃の虚子。この地での3年間は、虚子85年の生涯において最も作句意欲が盛んであった。(虚子記念館蔵所蔵)
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