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三十六の連峰、東山。その中で、もっとも目につくのは音羽山[おとわやま]の麓に見える清水寺の大伽藍である。千年の王城の地に育まれた文化や伝統は、貴族や武家たちだけのものではない。庶民の生活の間にも、しっかりと育まれていた。その代表格が全国的な人気を誇った清水寺詣である。その姿は「清水寺参詣曼荼羅[きよみずでらさんけいまんだら]」に生き生きと描かれている。
清水寺の縁起をひも解くと、奈良時代末の778(宝亀9)年、大和[やまと]・子島寺[こじまでら]の僧だった延鎮[えんちん]が、夢で「淀川をのぼりつめたところに金色の冷水の流れがある」とのお告げを受ける。それにしたがって音羽山に分け入ると、三条の滝があり、その上に小さな庵を見つけた。そこで修行をしていた行叡[ぎょうえい]という老人から、寺を興すようにと、観世音菩薩[かんぜおんぼさつ]の威神力[いじんりょく]が込められた霊木を授かった。延鎮は霊木から観音像を彫りだし、老人の旧庵に祀ったという。これが清水寺の始まりである。
延鎮は庵を結び、鹿狩りにきていた坂上田村麻呂[さかのうえのたむらまろ]と出会う。延鎮は「殺生をしてはいけない。この観音様に祈りなさい」と戒[いまし]めた。改心した田村麻呂は観音に帰依[きえ]し、夫人と協力して滝のほとりに仏堂を建立した。
その後、田村麻呂は桓武[かんむ]天皇の命を受け、蝦夷[えみし]平定に成功。観音の加護に感謝した田村麻呂は、延鎮とともに本尊の十一手千手[じゅういってせんじゅ]観音立像とその脇士[わきじ]を造像する。さらに天皇から授かった長岡京の紫宸殿[ししんでん]を移築、奉納して本殿とし、そこに立像を祀った。
清水寺を訪ねると、境内にさまざまな仏様が混在していることに驚く。本堂の奥の釈迦堂[しゃかどう]には釈迦三尊[しゃかさんぞん]、その隣の朱に塗られた阿弥陀堂には浄土宗の開祖・法然上人像、奥の院には真言宗の開祖・弘法大師空海像。そして、大日如来[だいにちにょらい]、地蔵菩薩[じぞうぼさつ]、不動明王[ふどうみょうおう]も境内に祀られ、清水寺は宗派にこだわらずお参りできる寺なのである。
いろいろな宗派が分け隔てなく肩を寄せ合っているところに、この寺の面白さや魅力があり、年間400万もの人が訪れる秘密がある。「清水寺という寺は、仏教界をゆうゆうと泳ぎ回る巨鯨のような存在だ。仏教のあらゆるものを呑み込んでいる」と、五木寛之氏が評している。
これは、清水寺の根本に観音信仰があるがゆえの懐の深さなのだろう。観音の「観」は、観音様の智慧を表し、世間の響きのことを「音」という。世間の音、つまり人々のさまざまな願いや祈りを観じて助けてくださるのが観音だということなのである。
清水寺の門前は、年中人であふれ返っている。修学旅行の学生、各地からの団体旅行のグループ、外国人観光客などが入れ替わり立ち替わり、清水さんの門前をなす土産物店がひしめく清水坂を上ったり下ったりする様は、かつて「清水寺参詣曼荼羅」に描かれた時代と寸分のちがいもない。そこには、物見遊山という好奇心にときめきながら、同時に観音様の慈悲にすがって、この世を生きていこうと心の奥深くで願っている老若男女がいる。 |
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室町時代後期に描かれたと伝わる『清水寺参詣曼荼羅』。当時の清水寺詣の賑わいが生き生きと表現されている。(清水寺蔵) |
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1.五条大橋(現・松原橋)
2.清水坂
3.八坂の塔
4.子安の塔(当時は仁王門前にあった。境内には安産を祈る男女の姿がある)
5.仁王門
6.本堂(舞台には花見客や観音を拝む男女の姿がある)
7.音羽の滝
8.延鎮と坂上田村麻呂 |
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奥の院から本堂を望む。標高120mの山腹にあり京都の町を一望できる。「清水の舞台」から実際に人が飛び降りたのは江戸時代が最も多く、観音の願掛け参りの満願日に「飛び落ち」した。助かれば願いが叶い、死んでも極楽へ行けると信じられていた。 |
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清水寺縁起の「音羽の滝」。金色[こんじき]水、延命水とも呼ばれ、参詣人はこの清水を飲むことで、観音と縁[えにし]を結ぶとされる。 |
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土産物店が軒を連ね、人々で賑わう清水坂を上りきると、朱色の鮮やかな仁王門が参詣人を迎えてくれる。右奥の三重塔の手前が西門。 |
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2003(平成15)年に室町時代後期の丹朱[たんしゅ]が蘇った仁王門。 |
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本堂より子安の塔を望む。もとの寺名を「泰産寺[たいさんじ]」といい、安産祈願の名所。1911(明治44)年に仁王門前から現在の本堂南側に移築された。 |
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