Blue Signal
January 2004 vol.93 
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特集[大森銀山] 神と仏の習合の地
比叡山延暦寺・里坊の町、坂本
-石の声を聴け- 口伝、穴太衆積み
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司馬遼太郎著『叡山の諸道』(街道をゆく16)によれば、「石積みの技術そのものは古い。(略)山の傾斜に石垣を築き、棚を造るようにして水田を築造するやり方は、上代から行われていたにちがいない。(略)最澄の死後、比叡山における建築物の造営は、平安期を通じて営々としてつづけられた。そのために石垣技術は大いに発達し、その技術者たちが山麓の穴太にあつまったのかと思われる。『穴太衆』という独特の技術集団が形成され、新工夫がつぎつぎに出て、天下に知られるようになったにちがいない」とある。

安土城の築城によって、穴太衆は一躍世に出た。一般には、1571(元亀2)年の比叡山焼き討ちによって信長は穴太衆積みの存在を知り、1576(天正4)年正月に着工した安土城の築城に、穴太衆を動員したという。安土城の石組みに起用されて以来、石垣の技術集団・穴太衆の名は一躍天下に知られるようになった。

穴太衆は、秀吉の大坂城、家康の江戸城築城にも活躍しており、信長、秀吉、家康と、穴太衆の起用が引き継がれたわけである。

ことに関ヶ原合戦の後、諸国で石垣を用いた近世的な城普請がいっせいに始められると、穴太衆はひっぱりだこになった。山内一豊が土佐への入国が決まったとき、穴太衆の一人北川豊後を100石で召し抱えることになっていたのを、他の大名に取られはしまいかと心配して、150石に引き上げた話などが伝わっている。

しかし、こうした本格的な城普請も1657(明暦3)年の江戸城で事実上終わりを告げる。

やがて、近江坂本の穴太に、どの大名にも属さない穴太衆積みの家元ができたことで、穴太はいつしか石垣師の養成地、供給源として多くの子弟を各地へ送り出していくのである。

穴太衆の石積みの奥義は、すべてが口伝。文書はいっさい残されていない。そこで穴太衆積みの系譜を引く14代石匠粟田純司さんを訪ねて、秘伝の一端を伺った。

「わたしも先代について修業し始めたころ、積んだ石垣を無言で崩されました。わしが積むのを見て覚えよ、というわけです」

いまも、石を配置する設計図はない。まず、石の集積場に出かけていき、どういう顔の石があるかを、じっくり見てまわる。そして、頭の中に完成イメージ図を描く。そのイメージに向かって積んでいく。

穴太衆の口伝として「石の声を聴き、石の行きたいところへ持っていけ」という言葉がある。最初は理解できなかったが、安土城の天主台復元の一角を任されたとき、ある石と目が合った。「ここに置いてほしいんやな」と思って納めたら、なんとも絶妙な間合いでピタッと据わった。そのとき「コトン」という石の声を聴いたような気がしたという。石組みを眺めてみると、落ち着いたいい景色になっている。「そうか、これが石の声か」と。そのとき一人の穴太衆石積み石匠粟田純司が誕生した。大学の土木工学科を出て10年が経っていた。

坂本の町並みは、門前町の役割を果たす上坂本と、琵琶湖に面した下阪本に分かれるが、歴史的景観は上坂本によく残されている。上坂本は、さらに町家の連なる地区と、里坊の並ぶ穴太衆積みの地区とに分けられ、それぞれまったく異なる景観を呈して、いまも静かに息づいている。冬は雪景色、春は桜、秋は紅葉で彩られる石垣を愛でながら、ひととき歴史絵巻の中に佇んでみたい。
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日吉の馬場沿いに建つ里坊。向唐門(むこうからもん)と呼ばれる優美な曲線を持つ門が、大小の自然石からなる穴太衆積みに調和している。
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里坊の歴史を感じる苔むした穴太衆積みの石垣。自然石を積み上げる工法は、切石の石垣とは違った趣を感じさせる。
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組み方は図のように、石面(いしづら)より10〜15cm奥部で下石と上のせ石を合わせる。これを「二番(にばん)」といい、もっとも石垣を安定させる構造となる。
-石の声を聴け- 口伝、穴太衆積み
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本瓦葺きの門と漆喰の土塀の周りを穴太衆積みの石垣で囲った里坊。
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穴太衆積みは野面(のづら)といわれる加工を施さない自然石を使う。道具はバール1本。(写真は福知山城修復時のもの)
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歴史の風格を感じさせる石垣と生け垣が続く道。それぞれに表情が違う穴太衆積みを見て歩くことも、楽しみの一つである。
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坂本の石垣を積み上げてきた穴太衆の末裔、粟田純司氏。その技術を継承するのは、今では粟田家のみ。
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