能登半島西海岸に広がる千里浜の夕景。万葉歌人の大伴家持ゆかりの海岸は、夕陽の景勝地でも知られる。

特集 神話を起源にその伝統を今に紡ぐ 〈石川県羽咋市・中能登町〉 能登上布

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神代より伝わる麻織物の町

 夕景の中、打ち寄せる波の音が響きわたる。赤々と燃える夕陽は、羽咋[はくい]の海や千里浜[ちりはま]を茜色に染め、海鳥が群れをなして飛び交っている。

 「之乎路[しおじ]から 直越[ただこ]え来[く]れば 羽咋の海 朝凪[あさなぎ]したり 船梶[ふねかじ]もがも」。万葉歌人の大伴家持[おおとものやかもち]の歌である。越中の国守として能登国を視察した家持が能登国一之宮の「氣多[けた]神宮(大社)」を参拝する折に羽咋の海の情景を詠んだ歌だ。当時は羽咋の海に続く広大な潟であった邑知潟[おうちがた]の景観だったともいわれている。

能登上布の祖神を祭祀する能登比神社。「織物神」として知られ、織物業の守護、繁栄を祈る神社として古来崇敬される。能登比神が薨(こう)じたときに、村人は亡骸を神社裏の丘に葬ったと伝承されている。

志賀町にある能登比織島。機具岩(はたごいわ)とも呼ばれる。能登比神が盗賊に襲われた時、機棹を海中に投げて、この島を作ったという伝承が残る。

かつて苧麻が豊富に自生していた邑知潟。この地域で作られる良質な麻糸が近江上布の原糸として使われていた。現在は白鳥やカモ、サギなどが飛来する「白鳥の里」で知られる。

 日本海に突き出た能登半島は、大きく三つの地域に分けられる。半島のつけ根に位置する羽咋のあたりを「口[くち]能登」、七尾など半島の中央部を「中[なか]能登」、そして珠洲[すず]などのある先端部を「奥[おく]能登」という。千里浜の広がる能登半島西海岸から羽咋川を遡り東に行くと、中能登町がある。「能登上布」のふるさとだ。その中でも、旧鹿西町[ろくせいまち](現:中能登町)は能登上布の産地として栄えた地域で、旧街道沿いには黒光りする屋根瓦を頂いた屋敷が軒を連ねている。隆盛を極めた織元の財力の証に違いない。そんな旧街道沿いに鎮座する「能登比[のとひめ]神社」は、麻織物の祖神を祭祀した格式ある神社だ。祭神は「能登比神」と「沼名木入比売命[ぬなきいりひめのみこと]」で、二神ともに織りと深い関わりを持つ。社伝によると、「記紀神話」にも登場する大己貴命[おおなむちのみこと](大国主神)と少彦名命[すくなひこなのみこと]が越国[こしのくに]の平定後に能登国に入り、機織りに精を出す乙女と出会う。乙女は濁り酒を献じ、稗粥[ひえがゆ]でもてなし、命たちに立派な法衣を献上した。この乙女こそが能登比神で、横糸を通すための道具である「杼[ひ]」を考案したという。後年に、第10代崇神[すじん]天皇の皇女の沼名木入比売命がこの地を訪れ、能登比神の遺業を再興した。その技術は里人に継承され、両祭神は能登上布の祖神として崇められている。能登上布の起こりはこうした伝承に基づいている。

苧麻の繊維と麻糸。麻糸は吸水と発散性に優れ、丈夫なのが特徴。現在は輸入物がほとんどだが、能登上布会館では、福島県や沖縄県産も入荷する。

中能登町の先人たちがかつて使用していた機織り機や道具が並ぶ能登上布会館。能登上布の伝統の保存と継承のため、1996(平成8)年に開館した。

能登上布会館で機を織る地元の女性。その昔は各家庭に機織り機があったという。ここで織られたものは商品として販売され、町の産業振興に貢献している。

 能登上布は、旧鹿西町を中心に隣接する羽咋市にかけて生産された精緻な麻織物だ。透けるほどの軽やかさから「[せみ]の羽[はね]」と形容される。その歴史は神代に始まり、江戸時代、そして現代にわたってその匠の技は連綿と伝えられてきた。

 古来、この辺り一帯は衣料に使われる麻の一種「苧麻[ちょま]」の生産地だった。もともと邑知潟の水辺や周辺の山々に自生していたという。そんな良質な麻糸は「近江上布[おうみじょうふ]」で知られる近江国へ供給されていた。やがて、独自で作ろうという機運の高まりから近江の職人3名を招き、染め織りの技術を学んだ。「縮絣[ちぢみかすり]模様染め付け」の手法が開発され、地場の産業として発展。江戸時代末期の1818(文政元)年に、「能登縮[のとちぢみ]」が誕生した。

 時代は明治に移り、七尾鉄道(七尾線)が開通すると販路は拡大する。1904(明治37)年頃には、「能登縮」から「能登上布」に名称を変更。1907(明治40)年には皇太子殿下への献上品に選ばれ、その品質を世に知らしめた。「上布」とは、麻織物の最高級品に送られる称号だ。その名声はとどまることを知らず、最盛期の昭和初期には麻織物の年間生産量が30万反に達し、全国一を誇った。織元の数は120軒以上を数え、機を織る音が夜通し聞こえたという。そして、1960(昭和35)年に石川県の無形文化財に指定される。

 しかし、化学繊維への転換や和服離れで産業は徐々に衰退し、中能登町から織元は姿を消した。旧鹿西町にある「能登上布会館」では、その伝統を絶やさぬよう保存と継承に力を尽くしている。館内には多くの織り機や道具などが設置され、実際に体験してもらい若い職人の誘致に努めている。そして、今や糸繰りから機織りまでを手掛ける織元は、隣町となる羽咋市にただ一軒を残すのみとなった。

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