奠供山の山頂から眺める片男波。和歌川と和歌浦湾を2つに分けるように砂州が延びる。眼下には江戸時代に設けられたアーチ状の石造りの不老橋も見える。

特集 絶景の宝庫 和歌の浦〈和歌山県和歌山市・海南市〉 都人が憧憬した聖地

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若の浦に潮満ち来れば潟を無み

東側の名草山から眺めた和歌浦湾。今は市街地の中にある山々だが、万葉時代には海に浮かぶ島々だったことが分かる。ここからは片男波が横真一文字に見える。

『東照宮縁起絵巻』。絵図に描かれた昔の和歌の浦の景観。手前の砂地が片男波で、対岸の名草山には紀三井寺が見える。現在の陸地化した風景とはずいぶん様変わりしている。(紀州東照宮所蔵)

 奠供山[てんぐやま]は標高40m足らずの小さな岩山だが和歌の浦の眺めが素晴らしい。空と海が溶け合い、眼下には、海を裂くように砂州が一直線に延びている。外海の浜には白波が打ち寄せ、砂州の内側は静かな入江だ。動と静が共存する対称的な風景はさらに潮の干満で刻々と姿を変える。

 潮が引くと干潟が現われ、鳥の群れが忙し気に餌をついばむ。片男波[かたおなみ]と呼ばれる砂州と干潟こそ日本遺産認定の和歌の浦の中心的な景観だ。『続日本記』に「山に登りて海を望むにこの間最も好し」との記述がある。聖武天皇の紀伊国行幸を記した一文だが、この時、聖武天皇が見渡したのが奠供山からの眺望だといわれている。

 和歌の浦。和歌山市の南、紀伊水道に注ぐ和歌川の河口域の和歌浦湾の海岸一帯は、いにしえより知られた景勝地だ。西に海、三方を山々が囲む湾部には断崖の岬と入江が続き、沖に浮かぶ島々が織り成す変化に富んだ躍動的なその景観は、海のない都の人々にとって強い憧れであった。

 724(神亀元)年、即位した聖武天皇の一行は奈良の都を出立し、紀ノ川沿いに南海道を西へと辿り、紺碧の紀伊国の海に目を見張り、心躍らせたに違いない。一行は玉津島に仮宮を設けて半月ほど滞在するが、天皇は和歌の浦の素晴らしい風景に感動して、詔勅[しょうちょく]を発した。

和歌三神の一柱を祀る玉津島神社。社伝では創建は上古時代と伝わる。

境内にある山部赤人の歌碑。「若の浦に潮満ち来れば〜」の有名な一首。

玉津島神社の権禰宜遠北さん。「日本遺産で参拝者が増えています。和歌の浦の歴史と多くの人に和歌に親しんでいただければと願っています」と語る。

 古くは弱浜[わかのはま]とも呼ばれていた浜を「明光浦[あかのうら]」と改名し、明光浦霊[あかのうらのみたま]を玉津島に祀り、守戸[しゅこ](番人)を置いて景観を保全するよう命じた。行幸に随伴した宮廷歌人、山部赤人[やまべのあかひと]が詠んだ一首に、「若の浦に 潮[しほ]満ち来れば 潟を無[な]み 葦辺[あしべ]をさして 鶴[たづ]鳴き渡る」がある。

 天皇の感動を表した歌といわれる。若の浦に潮が満ちてくると、干潟がなくなり、水鳥たちは一斉に、葦の生えた岸辺に鳴きながら飛んで行く。印象派の絵画を見るような歌の光景は、千三百年の時を超えて今でも変わらずに繰り返される和歌の浦の自然の営みだ。

 しかし千年以上もの時間で風景の変化は否めない。「奈良時代には玉津島六山といい、現在の妹背山、鏡山、奠供山、雲蓋山[うんがいさん]、妙見山、船頭山は満潮時には海に玉のように連なる6つの島山だったのです。陸地化して妹背山だけが昔の姿です」。そう話すのは奠供山の麓にある玉津島神社の権禰宜[ごんねぎ]、遠北[あちきた]喜美代さん。

 玉津島神社は上古以来の古社で、『古事記』にも記される和歌の名人で絶世の美女だった衣通姫[そとおりひめ]が祀られている。和歌の神様だ。そして紀貫之[きのつらゆき]が赤人の歌を『古今和歌集』に取り上げ高く評価したことで和歌の浦、玉津島は「和歌の聖地」として崇められるようになり、「若の浦」も「和歌の浦」に転じた。

和歌浦天満宮。大宰府への途上、風待ちをした菅原道真に由来して平安時代に創建。和歌の浦一円の地主神である。

 以来、歌枕として和歌の浦は都の貴族や歌人、文人の憧れの地になる。平安時代には天満宮も創建。高野山や熊野参詣、西国巡礼の道すがらの名所にもなり、さらに鎌倉、室町時代も繰り返し和歌に詠われ、物語や紀行、絵画に描かれた。人々は盛んに和歌の浦に遊んだ。今でいう観光だ。

 再び、奠供山の山頂。聖武天皇と同じ場所で眼下の風景を眺めている。そう考えると時空を超えた不思議な感覚だ。山部赤人が描いた風景が確かに見えるような気がした。

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