沿線点描【美祢線】厚狭駅から長門市駅(山口県)

山陽から中国山地を越えて、のんびりと日本海を目指す。

美祢[みね]線は山陽の厚狭[あさ]駅と山陰の長門市駅まで約46kmを南北に縦断して結ぶ。
明治からの日本の近代化を担い鉄道の歴史を秘めた美祢線で、日本海までのんびりと旅に出た。

列車は厚狭川に沿って走り、自然豊かな景観を楽しめる。(湯ノ峠駅〜厚保駅)

寝太郎伝説の町から鉱山の町へ

 美祢線の起点は厚狭駅。山陽本線、山陽新幹線も乗り入れるターミナル駅だ。駅前に建てられた立派な銅像は『三年寝太郎』。3年3カ月、毎日寝てばかりの寝太郎は怠け者と思われていたが、ある日突然目覚め、村の窮状を助けるという民話の主人公だ。厚狭の伝承では実在のモデルがあり「厚狭の寝太郎さん」として敬愛されている。

 厚狭から長門方面への列車は1日10本。単線の地方路線だが、美祢線は日本の近代化を担ってきた。列車は厚狭駅を出発するとまもなく厚狭川と並んで北へと向かう。周囲には目にも麗しい美田が広がっている。実は、この厚狭川と美田の風景こそ、寝太郎さんの偉業なのだそうだ。寝太郎のモデルは、室町時代に権勢を誇った大内家の家臣、平賀清恒といわれている。

 平賀清恒は、資金を集め、厚狭川の灌漑[かんがい]工事を行って水不足に苦しむ人々を救い、用水路を整備して荒地を開墾して農地を人々に分け与えたと言い伝えられる。堰[せき]は「寝太郎堰」と呼ばれて今も残っている。そういう逸話を重ねて、車窓の風景を眺めると感慨もひとしおだ。

厚狭駅前に建つ寝太郎像。厚狭川には寝太郎伝説に因む寝太郎堰が今もあり、ここから厚狭盆地に灌漑用水を導いている。

大嶺炭田の遺構として大嶺町奥分に残る美祢斜坑跡。

コバルトブルーの水面が鮮やかな別府厳島神社の境内にある弁天池。透明度が高く名水百選に指定されている。

ラッピング列車『幕末ISHIN号』。

美祢市立美祢図書館の前に展示されるC58型機関車。旅客輸送や石炭、石灰石運搬にと活躍した。

 蛇行する厚狭川に沿って列車は一路中国山地を目指す。湯[ゆ]ノ峠[とう]駅を過ぎるといよいよ山峡の景観となり、やがて第三厚狭川橋梁にさしかかる。この橋梁は2010(平成22)年の記録的な豪雨によって流出し、美祢線はしばらく全線不通を余儀なくされたが、地元の方々の協力もあって完全復旧し、厚狭川の渓谷美を楽しませてくれる。山肌を縫うように走る列車の車窓を小さな集落が次々に飛び去っていく。ほどなくすると南大嶺[みなみおおみね]駅だ。かつての大嶺支線との分岐駅で、美祢線はそもそもは大嶺炭田の石炭を輸送するための路線だった。

 厚狭駅から約30分で、路線の中間地点である美祢駅だ。中国山地の真っただ中だが、景観は広々している。石灰石の産出地として知られる美祢は、国の特別天然記念物であるカルスト台地の秋吉台や鍾乳洞で有名な秋芳洞への玄関口でもある。自然が億年をかけて創造したその造形美にただただ感嘆。圧倒的な自然の驚異を目の当りにするに違いない。

国定公園と特別天然記念物に指定されている、日本最大級のカルスト台地の秋吉台。約3億4千万年前から約8千万年の年月をかけて形成された石灰岩が地表に露出している。

化石の町から湯の郷を経て、日本海へと抜ける

 美祢は知る人ぞ知る、日本でも有数の化石の産地である。「美祢には化石採集場があって、そこでは三畳紀の植物化石や、まれに国内では最古級となる昆虫化石なども産出しています」。

 そう話すのは美祢市歴史民俗資料館の白井敬子さん。大嶺炭田の歴史資料のほか、約10万点の化石を収蔵。それでも収蔵しきれない化石を新たに開設した美祢市化石館に移したそうだ。

美祢市化石館

美祢市歴史民俗資料館では、大嶺炭田の資料や道具などを展示。また、各地質時代の化石を展示・保管する。スタッフの白井さんは「化石採集体験を実施していますが、形にこだわらなければほとんどの方が採集できます」と話す。

1410(応永17)年、大内氏一族により創建された曹洞宗の古刹「大寧寺」。「西の高野」とも称され、家臣の反逆により大内義隆が最期を遂げた寺院だ。

 於福[おふく]駅、渋木駅間の大ケ峠[おおがたお]のトンネルを抜けると、列車は緩やかな下り勾配を辿る。この峠は瀬戸内側と日本海側とに水流を分つ分水嶺である。峠を過ぎると、もう長門市だ。

 長門湯本[ながとゆもと]駅は山口県を代表する長門湯本温泉の玄関口で、温泉情緒たっぷりの古くからの湯の郷だ。約600年前に住吉大明神のお告げによって発見されたと伝わり、音信川[おとずれがわ]の両岸には風情のある旅館が軒を並べる。奥深い歴史を秘めた土地でもある。大寧寺[たいねいじ]は栄華を誇った大内家の終焉の地で、31代の大内義隆が家臣の陶[すえ]隆房の謀叛、「大寧寺の変」によって自刃した場所。そして、三年寝太郎のモデル、平賀清恒ゆかりの地でもある。

 清恒は「大寧寺の変」を逃れ、厚狭に落ちのびて追手から身を隠し、ひっそりと身分も名も潜めて暮らす。名も身分も明かせない事情ゆえ、やがて「寝太郎さま」と慕われ、いつしか民話のヒーローとして後世に語り継がれていったということのようだ。

 この長門湯本で「ぜひに」と推薦されたのが「俵山温泉」で、訪れてみたい山の中の湯治場だ。美祢線は2つ先の長門市駅が終着だが、列車によっては山陰本線の支線に入って仙崎まで直通する。露天風呂を楽しんだ後、青海島を前に潮風に浸り、詩人・金子みすゞが愛した詩情あふれる風景が、旅の満足感をいっそう満たしてくれる。

大寧寺の住職が見つけた温泉、恩湯(おんとう)という共同浴場は、レトロな建物で町のシンボルとなっている。

長門市駅で発着するラッピング列車「長門号」。デザインは長門市出身の童謡詩人金子みすゞの作品に因んでいる。

もっと巡りたい風景 藩主も愛でた湯治場、俵山温泉

千余年の伝統を持つ俵山温泉。古くから効能の高い療養本位の湯治場として知られる。ほとんどの旅館に内湯がなく、湯治客が一般浴場に通う姿が見られる。

周囲を山に囲まれ、いかにも湯治場の雰囲気を漂わせる俵山温泉。(写真提供:俵山温泉合名会社)

 開湯1100年の俵山温泉は、長門湯本温泉から西の山懐にずっと分け入った山あいの閑静な温泉郷。長門市駅からバスで35分、長門湯本駅からバスで20分。周囲の山の重なりが俵を積んだように見えることから「俵山」の地名がついたという。この山峡の湯は、薬師如来の化身の白猿が発見したといわれ、長州藩毛利家直営の湯治場として重宝され、現在も国指定の「国民保健温泉地」として大勢の人が訪れる。

俵山温泉には「白猿の湯」と「町の湯」の二つの外湯があり、地元の人にとってはコミュニケーションの場でもあるという。湯治客同士が「お風呂友達」になることもあるそうだ。

 細い目抜き通りには旅館、通り向かいも旅館。温泉情緒たっぷりの旅館街には現在23軒が営業している。俵山の旅館の多くは内湯がなく、宿泊客は町の一般浴場にまで足を運ぶ。

 また、俵山では内風呂を持たない家も多く、町の人の多くも毎日一般浴場に通っているそうだ。湯温は41度とぬるめだが、湯に浸かっていると身体の芯まで温まる。湯に浸かった肌はすべすべ。源泉掛け流しの温泉は濃度の高い水素が水に溶け合うことで病気療養にも良く、県外からの湯治客も少なくないそうだ。湯に浸かって旅の疲れを癒し、地元の人と言葉を交わせば、旅の楽しさも増す。

見ざる、言わざる、聞かざるの3つのポーズの「三猿まんじゅう」は、白猿伝説に因んだ俵山温泉の名物。

「昭和中頃の最盛期には、46軒もの旅館があり大変な賑わいだったそうです」と話すのは俵山温泉合名会社の伊勢本益美さん。

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