若宮おん祭では、お旅所にお迎えした若宮神のおもてなしにさまざまな芸能が奉納される。写真の「和舞」は大和の風俗舞で春日大社では古くから伝承されてきた。貴重な古典芸能の一つだ。

特集 奈良市 春日大社

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大和一国を挙げての祭り「若宮おん祭」

 春日大社のすぐ南、灯籠が並ぶ参道を行くと若宮神社が鎮座している。祭神は天押雲根命[あめのおしくもねのみこと]。御本殿の第三殿、第四殿の天児屋根命と比売神との御子神で、水徳と知恵と生命の神。この「若宮おん祭」は、若宮神をお迎えして万民豊楽で盛り上がる平安時代から続く祭りである。

 平安時代の1136(保延2)年、時の関白・藤原忠通が、長年に及ぶ大雨長雨による水害や飢饉から万民を救済するために、お旅所と呼ばれる仮殿に水徳の神である若宮神をお迎えしたのが始まりという。もとは臨時の祭りだったが、霊験あらたかなために例祭になったようで、以後今日まで880年間、一度も途切れることなく受け継がれている。

騎馬の稚児が春日大社の参道で矢を射る「流鏑馬」。大和士(やまとざむらい)は若宮おん祭を盛りたてた功労者でもある。

 「春日祭」が勅使を迎えて行われる例祭であるのに対し、「若宮おん祭」は、「神人和楽、万民豊楽」であるのが特徴で、故に年々盛大になった。競馬や流鏑馬、相撲、田楽、舞楽など、現代でいう娯楽要素のある芸能が多く含まれている。中世には春日大社と深い関わりのある興福寺が祭りを主催し、衆徒や武士も祭りに参加した。

 やがて町衆や農民も加わり、収穫を無事に終えた感謝を祝った。大和一国挙げての盛大な祭りとなり、「おん祭」と呼ばれるようになったが、正式には「若宮祭」という。祭りは7月の「流鏑馬定[やぶさめさだめ]」を事始に5カ月間以上にも及ぶ。10月に若宮神をお迎えするお旅所の仮殿の地鎮祭にあたる「縄棟祭[なわむねさい]」、11月に造営が始まり赤松の松葉で仮殿の屋根を葺く。

 祭りの中心は12月17日から翌18日。17日午前0時に若宮神をお旅所にお迎えする「遷幸[せんこう]の儀[ぎ]」に始まる。松明[たいまつ]の火だけで一切が漆黒の闇と静寂の中で進行する神秘的な儀式だ。お旅所に着かれた若宮神をおもてなしする「お旅所祭」では、神饌[しんせん]を捧げ、社伝神楽や芸能集団による芸能が奉納され、そしてその日のうちの深夜に再び若宮神社へとお還りになる。

若宮神に奉納される「田楽」。田楽の起源は、神に五穀豊穣を祈る舞の「田舞」に由来するという説があるが、日本の芸能のルーツの一つとされている。能楽は「田舞」、「猿楽」から派生した。

 神事は厳粛だが、次々に奉じられる芸能は祭りの見どころだ。社伝神楽、田楽、細男[せいのお]、猿楽、舞楽などが「芝居」の語源でもある芝地の舞台で演じられる。今日の能の主流派は大和猿楽四座を祖とし、当時12歳の世阿弥も田楽を見物し大いに影響されたようだ。「お渡り式」では古式装束の「日使[ひのつかい]」「神子[みこ]」に先導された、時代絵巻のような大行列が華やかに市中を練り歩く。

若宮おん祭の「お渡り式」で、風流傘をさしかけながら馬で行列する「神子」。春日大社では伝統的に御巫(みかんこ)と呼ぶそうだ。

 祭りは国の重要無形民俗文化財で、「芸能の祭り」ともいわれるように奉納される芸能はどれも貴重な伝統芸能だ。今日の芸能のいくつかはおん祭があったが故に残ったともいわれる。春日大社に古くから伝わる「和舞[やまとまい]」は大和の風俗舞で、その他にも中世以前の大和の芸能が古式そのままに継承され、「おん祭」に日本の芸能の源流を見ることができるのだ。

 若宮神が本殿に還られ、祭りに奉仕した人々をねぎらう「後宴能[ごえんののう]」をもって祭りは幕を閉じる。そうして奈良の一年も終わる。「お渡り式」は約10万人もの見物客が集まる盛大な祭りだが、江戸期は大和一国を挙げての祭りだったという。そんな賑わいの祭りも、明治に入って存続が危ぶまれたことがあったそうだが、奈良の人々は費用を集めて支援し、「おん祭」の伝統を守りぬいた。古都の伝統は、奈良の人々の誇りであり、それを守り次の世代に継承していくことを使命としている。そういう民意と、市民の協力があってこそ「おん祭」880年の伝統が現在も続いているに違いない。

 春日の杜が夕陽に染まっている。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」。遣唐留学生だった阿倍仲麻呂が詠んだ望郷の一首である。仲麻呂の脳裏に浮かべた春日の峰々の風景は今も変わらず、そのまま目の前にある。

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