細く曲がりくねった山道を進むと、不意に視界が開けた。思わず声が出た。「すごい!」。すり鉢状の谷をぐるりと囲む山々の斜面にはことごとく田が築かれ、段々に連なっている。下から見上げるとまるで巨大な円形劇場だ。広々とした大垪和西の棚田風景はまったく爽快だ。垪和[はが]とは崖や急峻な地形をいう。
「日本の棚田百選」に選ばれて以来、大垪和西の棚田は年間1万人以上が訪れる美咲町の観光スポットとなった。文献に棚田の呼称が登場するのは『高野山文書』(1338年)だが、もっと以前からあったに違いない。盛んにつくられたのは江戸時代で、各藩が石高を増やすためだった。農林水産省の定義でいうと「傾斜度が20分の1(水平距離を20m進んで1m高くなる傾斜)以上の水田」、畑の場合は「段々畑」という。
棚田のあちこちに天水が湧き出している。生活排水や工場排水のない天からの恵みの水がおいしい棚田米を育てる。
棚田は日本の中山間地域の原風景として全国各地にある。フィリピンの「コルディレラの棚田」が世界文化遺産であるのと同様に、景観の美しさはもちろん、周囲の自然と人の暮らしとが密接に関わって育まれたという点で、歴史的、文化的に価値が高い。大垪和西の棚田の風景もこの集落の人々との暮らしの記憶が刻まれている。
面積は約42ha、周囲約5.5km。棚田は公称約850枚。「小さい田を合わせると千枚以上あるでしょう」。江戸期から6代続く米農家の溝口清(71歳)さんは「冬には谷は霧で包まれ、雪も積もります。寒暖差の大きい、厳しい自然環境がおいしい棚田米を育ててくれるんです」と話す。加えて「天水」という恵みがある。「ここの米は天水だけで育つんです」と話すのは、やはり代々、棚田米をつくる横川守(62歳)さんだ。
米農家の溝口清さん(左)と横川守さん(右)。高齢のために田仕事ができなくなった他家の棚田も守っている。集落には相互扶助の絆が今も残る。
ここで降った雨は周囲の雑木林の山々で涵養[かんよう]され、土味を豊かにし、湧水となって棚田を潤す。日照り続きでも水は涸れることがない。米農家には、不純物のない天水はまさにありがたい天の恵みなのだ。また治水、治山や生態系などの環境を保全する機能も棚田は備える。作物の実りをもたらすと同時に土壌の流出や崩壊を防ぎ、集落を守ってくれてもいる。
春先の水がはられた棚田の風景はまるでモダンアートを見るようだ。棚田は四季折々に表情を変え、訪れる人の期待を裏切らない。
そんな棚田の風景は、人の心も和ませてくれる。雑木林に溶け込むようにぽつりぽつりと点在する人家、棚田に立ち上る紫色の煙、それらを眺めているだけでほのぼのした気持ちになる。すり鉢状の谷底に棚田を仰ぐ公園があり、そこに備えられた見学者のノートには、一様に「素晴らしい景観に感動しました」と記してある。誰もがこの壮観な風景に心打たれている。が、斜面を切り拓いた先人の苦労はどれほどだったか。
「ここを切り拓いたご先祖の手間と苦労には頭が下がります。田植えも稲刈りも今は機械ですが、それでも棚田を守るのは大変。米作だけでは暮らしは厳しい」と宮尾正道(60歳)さんは言い、米作とともにタバコ栽培にも力を入れている。一番の課題は集落の高齢化。江戸時代から代々受け継いできた棚田を、この先どのようにして守っていくかが悩ましい問題だ。
集落の戸数70戸のうち農作業を続けられるのは約40戸。棚田百選に認定されると助成金が交付されるが、棚田の担い手不足に歯止めがかからない。棚田保存地区連絡協議会が知恵を絞り「棚田支援隊」や「アグリカルチャー会」など、さまざまな活動を通して棚田を次の世代に残そうと頑張っている。
稲の刈り取りが終わった晩秋の棚田に西日が当たる。あぜ道にはススキの穂が揺れ、積み藁が点々とする景色は、まさに日本の原風景だ。
息子さんと2人でタバコ栽培も手がける宮尾正道さん。「ご先祖からの棚田だからずっと守り続けたい」と言う。
棚田保存地区連絡協議会(集落全戸がメンバー)では棚田の維持と集落の活性化のためにさまざまな企画、イベントなどの活動に取り組んでいる。写真は「棚田きんちゃい祭り」での餅投げの様子。
山村では昔から自然と共生して暮らしてきた。自然を敬い、山々と一体化した人の営みは慎ましく穏やかだ。