田後港。昭和初期までは小さな浦だったが、現在では長い防波堤によって100トンの大型底引き網漁船10隻が停泊できる。

特集 因幡・浦富海岸 田後

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江戸時代からの漁業一筋の浦里

 コバルト色の海にリアス海岸が続く。浸食された海岸線には断崖、奇岩、洞門、無数の岩礁に荒磯、そして弓なりに横たわる眩[まばゆ]い白砂の浜。

 浦富海岸の景観を「神秘の幽境」と表現したのは文豪・島崎藤村だ。新聞の連載紀行『山陰土産』で訪れた藤村は、「こゝでは海岸全體[ぜんたい]が積み重ね積み重ねした感じをもつて私達に迫つて來る」などと周囲の景観を詳しく克明に描いている。汽車で大阪から城崎まで9時間を要した時代とは違い、今は幽境のイメージはないが、山陰海岸国立公園随一の風景は寸分も変わらない。2010(平成22)年には世界ジオパークにも認定され、太古の地殻変動と日本列島の形成が見られる学術的にも貴重な景観でもある。

 岩美町田後の集落はこの浦富海岸の小さな浦にある。石見国[いわみのくに](島根県西部)の漁師が文禄年間(1592〜1596年)に移り住んだのが起源だそうだ。鳥取藩の藩米を廻送する港でもあった田後は、江戸時代から400年ずっと漁業一筋で生きてきた漁師の集落である。

青い海と、荒々しい断崖が続く浦富海岸。洞門や洞窟、奇岩、岩礁など変化に富んだ美しい景勝地として、山陰海岸国立公園、さらに世界ジオパークネットワークに認定されている。

 「田後で生まれたら、男は漁師。親父もジイさんも漁師、その親父も漁師やったやろな」と言うのはイカ釣り漁をする仲山孝二さん。15歳で底引き網船に乗って以来のベテラン漁師の愛船は5トンの「受勝丸」。船名も代々継いでいる。そんな仲山さんがぽつりともらした。「昔はな、イカが80箱も獲れたけど、今は頑張ってもせいぜい10箱やな」。

 それでも、田後漁協は独自運営するほど漁獲量が多く、海産物の種類も豊富だ。冬の味覚の王者、松葉ガニの漁獲量は岩美町が全国一を誇る。鳥取県内で26隻ある100トンの大型沖合底引き網漁船のうち、10隻が田後漁協船籍だが、カニ漁の間は主に境港を基地に漁を行うそうで、田後では「受勝丸」のようにたいてい5トン未満の船が沿岸で操業している。豊饒の海はすぐ沖合にある。

 四季を通じてさまざまな魚介が水揚げされる。松葉ガニ、アカイカ、エテガレイ、モサエビ、ハタハタ、ハマチ、アジ、ヒラメ、アワビ、サザエ…。主だった海産物を挙げても枚挙にいとまがない。そしてベテラン漁師は別れ際に、船の上から呼び止めてこう言い放った。「多少のシケでも漁に出るんが田後漁師の心意気、伝統よぉ。今は、そんな無茶せんけどな、ははは」。

15歳で漁師になった仲山さん。「田後に生まれたら男は漁師になると決まっていた」と話す仲山さんは夜のイカ釣りの支度中。「昔はよう獲れたけどな」。

家々は港の背後の斜面に折り重なるように密集している。山陰地方独特の朱色の瓦がアクセントになって屋根の重なりが美しい。屋根越しに見えるのは田後港。

集落の家々は肩を寄せ合うように建っている。狭い土地を生かす工夫で階段状に家が建つ。家々をつなぐのは迷路のように張り巡らされた細い路地。一人がやっと歩けるほどの幅だ。

 昭和初期にはほんの小さな浦にすぎなかった港は、長い防波堤で拡張されて様子はずいぶん変わっているが、背後に迫る山の斜面に、家々の屋根が段々に重なった集落の形態は昔そのまま。異才の画家、須田国太郎が『漁村田後』(1936年制作)に描いた光と陰が織り成す集落の情景は、その家並みの描写と同様に、皆が肩を寄せ、助け合って暮らすという伝統文化が残っている。

 港で行われる田後神社の春の例大祭の「けんか祭り」も、漁師の果敢な心意気と、人と人の絆の文化を伝え残している。港の全ての船が大漁旗をはためかせ、田後神社の氏子若衆が神輿[みこし]と御船[みふね]に分かれて、激しくぶつけ合って豊漁と家内安全を祈願する勇壮な祭りだ。神輿の威勢がいいと災いのない平穏な年、御船の威勢がいいと豊漁の年になるそうだ。

 普段は訪れる人も稀だが、このところ、ちょっとした異変が起こっている。海水浴シーズンでもないのに、若い女の子らの姿が絶えないのだ。

港の背後の小高い山の上にある田後神社の石段と鳥居。かなり急勾配。田後の氏神である荒砂大明神が祀られ、田後の安寧を守っている。

田後に春を告げる「けんか祭り」。田後神社の春の例大祭で、漁協前の広場で田後の10地区の氏子衆が、神輿と御船に分かれて激しくぶつけ合うという勇壮な祭り。港の船は大漁旗を掲げて見た目にも壮観。一年の安全・平穏、豊漁を祈願する。

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