エッセイ 出会いの旅

イッセー尾形
1952年、福岡県福岡市出身。一人芝居俳優。テレビ番組『お笑いスター誕生!!』で金賞を獲得して広く認知されるようになった。その後、テレビ番組『意地悪ばあさん』で早野金造巡査を演じ、認知度は一気に高まった。現在では日本国内のみならずアメリカやヨーロッパといった海外でも巡業を行っている。

僕の西日本「旅」体験

 還暦を過ぎて独立フリーの身になり「ふむ。前期が終わってこれから後期だな」と自分では思っている。その前期には日本各地を一人で芝居で飛び回ったものだ。文字通りそれは旅公演であって旅そのものではない。ホテルと劇場の往復のみに費やした数十年。もちろん西日本もよく行った。あのホテルからあの劇場まで。通った道はよく覚えている。そんな中、一瞬でも公演のことは忘れて旅そのものを体験したのではないかなとも思う。
 例えば、新神戸。アテにしていたホテルが満室で、駅近くの細い道を入ったところの旅館に泊まったことがある。二階の窓から見下ろすと木蓮の白い花が隣の庭に咲きこぼれて、ちょっと洋風のオレンヂ色の瓦とよくマッチしている。お風呂に行くと大人三人が入れば一杯の湯船に老人が一人浸かっている。全く動かずにジッとしている。そんなに熱いのかと思って手を入れてみるが別にそれほどでもない。かけ湯して僕は体、頭と洗ってもおじいさんは相変わらず微動もしない。そろり、と僕も湯に浸かる。そっと覗くと薄目を開けていて眠っているわけではなさそう。何か言葉をかけた方がいいのかなと思うが、「大丈夫ですか?」は逆に叱られそうだし「いい湯ですね」は「はぁ?」とか言われそうだし言葉が見つからない。とうとう僕は先に出てしまった。そして体を拭いている時に浴衣の男が入って来て「さ、出よか」と言っておじいさんを介添えして体を拭いてあげると出ていってしまった…。これだけのことなんだけど、妙に生々しく覚えているこの感じが、僕の旅体験のような気がする。『木蓮とおじいさん』そんなタイトルをつけると実感がこぼれ落ちてしまう、旅…。
 山口県では百選ロードの一つけやき道を散歩している時に歯が痛くなり、偶然見つけた歯医者さんに飛び込んだ。待合室の窓からはプラタナスの葉がこっちまで入ってきそうに風に揺れている。どの窓も全開で白いカーテンが舞い踊っていた。その奥に行って診てもらうと「ほー。腕のいい医者にかかってたねえ。私が出来るのは応急処置だけだなあ。それでいーい?」そのお医者さんの謙遜ぶりと後ろで揺れている白いカーテン。思い出すとその時の風が蘇ってくる。これも僕の旅だ。
 行けば必ず訪れていたひろしま美術館。いつもピカソの描いた子供の前で立ち止まる。純真無垢!いいなぁ。マルケの描いた冬のポンヌフ橋。電車の屋根に積もった雪は停車するとズルッと落ちそうだ。それから江戸川乱歩を連想してしまうルソーのちょっと不気味な絵。発電所だったかな?ハッとするマチスの赤。デュフィのサアーッと薄く描いた大きな絵に力が抜ける。団体さんが部屋にやって来ると抜け出し、誰もいない部屋に足を入れる、その感覚。これまた『名画と団体さん』なんてタイトルではこぼれてしまう。
 出雲大社の大きなしめ縄に下から十円だったか五円だったか投げ上げて、ザクっと刺さった感触も忘れられない。斐伊川でしたか、ヤマタノオロチ伝説。自然を神話に変換する人間の物語能力がひっそりと今この目の前に在ることの不思議さ。同時に小さなショベルカーがひどく即物的にガクガクと動いてました!ああ、僕の旅だ。
 和歌山と奈良の県境、らしい所。どっちの県と言われたって山だらけでわからない。分校で一日先生をやったことがあって、緊張の授業も終わり校庭に出てみると一本のイチョウの木の葉が黄金色に輝いていた。風が吹くとホロホロと小判がこぼれ落ちていく。「大阪に就職していく子が多いですねぇ」と先生の言葉とともに強烈に覚えている。ホロホロ。
 こんな風に思い出すとまだまだありそうだ。別に何かのエピソードがあったわけじゃない、仕事モードの間隙を縫った僕の旅。たしかにそこで人は生き、僕も生きていた。後期はすでに始まっている。

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