沖合から眺めた沖家室島の全景。右の橋で繋がっている辺りが洲崎の集落。左の屋根型をした山の麓が本浦の集落。「家室千軒」と呼ばれた頃には、間口の狭い小さな家が所狭しと建ち並んでいた。

特集 周防大島 沖家室島

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家室千軒といわれた一本釣り漁師の島

 激しく潮が逆巻き、ざわめく。本州側の大畠と周防大島に挟まれた「大畠瀬戸」は、古代より鳴門海峡や明石海峡と並ぶ海路の難所で、遣新羅使[けんしらぎし]は命がけの航海の心境を『万葉集』に残している。現在は大橋で一またぎだが、渦巻く潮に抗[あらが]って無数の漁船が集まっている。鯛釣りの好漁場で、土地の人は「鯛は周防[すおう]の魚」という。鯛という字は確かに魚へんに周防の「周」と書く。

 それにしても瀬戸内安芸灘の風光は素晴らしい。青々とした空、陽光降り注ぐ海面はガラス片を撒いたように光輝き、大小無数の島々が点々と浮かぶ。穏やかな周防大島の海岸線を東南に行き着くと、目と鼻ほどの対岸に浮かぶのが沖家室島だ。1983(昭和58)年に島民の悲願であった橋が開通するまでは渡船で行き来する島だったが、橋で繋がってからは車もバスも通う。

一本釣り漁の小型船が舫われた洲崎の漁港。沖家室島は、開島以来400年以上の歴史を有する漁業の島だ。戦後の1950(昭和25)年頃は、港内は漁船で立錐の余地もなかったそうだ。

 島は米粒ほどに小さい。面積は1平方キロメートルにも満たず、しかもほとんどが山で島の北側の海岸沿いに平地がささやかにあるだけだ。車がすれ違う道路は一本だけで端から端を歩いても15分ほどだ。島には洲崎[すさき]と本浦[ほんうら]の2つの集落がある。石組の波止めに囲われた船溜まりに舫[もや]われた漁船は、一本釣りの小型船。そんな漁港の佇まいは「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」(水産庁)に選ばれ、瀬戸内の漁村の原風景といわれている。

 家々は漁港の背後に迫る山の裾に、狭い路地を挟んで密集している。人口は約150人。小学校、中学校はすでに廃校になり、数年前まで平均年齢70歳代の高齢化率「日本一」。出会う人はほとんどがお年寄りだ。「どこからきたん」と気さくに声を掛けてくれたのは、現役では島で最長老の一本釣り漁師、古谷正さん(81歳)だ。「家室千軒」と呼ばれた島の輝かしい歴史と家室漁師の果敢な気概を語ると、無類の饒舌だった。

81歳、現役最長老の漁師の古谷正さん。最初の年の水揚げは当時の13万円。船一艘が約5万円だったから現在の金額で千数百万円。「あの頃は良かった、漁師は腕一本で儲けたけんね」と話す。

 子どもの頃から父親と漁に出て、現在でもほぼ毎日、島伝統の「かむろ船」と「かむろばり」で一本釣り漁を続けている。「昔は港は舟でいっぱいで、家室鯛は大阪でも特別の扱いじゃったけんね」。古谷さんは調べた島の歴史と自分の漁の記録を克明に記している。それによると関ヶ原の合戦の後、伊予の水軍・河野氏の家臣らが島に移り住んだ時に始まる。以来、400余年。

古谷さんの6艘目の「かむろ船」。船底がやや反り返って海の上での安定性が良く、操舵室は小さい。海上で風の影響を少なくする工夫だ。

家室漁師が用いた一本釣りの仕掛け。重りの間隔など漁師それぞれの知恵と工夫が施されている。この仕掛けしだいで好漁場でも魚は釣れないという。(周防大島文化交流センター蔵)

家室漁師が考案した「かむろばり」。釣る魚によって針の大きさ、フックのカーブの加減が微妙に異なる。(周防大島文化交流センター蔵)

 古谷さんの家系も河野氏家臣の末裔という。島は毛利家の藩政時代には北前船や諸大名の参勤交代の停泊地で、藩の御船蔵もあったが、江戸期以後、一本釣り漁で発展していく。「畑はわずかじゃが、島の周りは鯛のほか魚の好漁場。一本釣りなら小さい舟でできたじゃけん」。そうして大勢の漁師が島に移住した。1887(明治20)年には人口約3,000人、漁師は約700人。海にこぼれ落ちそうなほど人で溢れ、銀行や旅館など都市機能を備えた賑わいだった。「家室千軒」の繁栄だ。

 ところが、この好漁場も数多い漁師の生活をまかないきれなくなり、家室漁師は魚を追い、生活道具を積み込んだ危なげな小さな舟で、異郷の海へと乗り出していった。東瀬戸内海、馬関(下関)、伊万里、平戸、対馬や朝鮮半島。さらにはハワイに漁業移民し、漁場を開拓したのは沖家室の漁師だという。古谷さんも14歳で父親と二人で長崎平戸へと漁に出た。「年に約3カ月、15年通った。儲かった。漁師も島もみな元気じゃった」。こう呟く古谷さんの表情が曇った。

古谷さんは島の歴史を調べ、自身の漁歴、漁に出た日の天候や潮の加減、仕掛けの具合や結果を日記のように記録している。経験とデータの蓄積が釣果を左右する。

島の中ほどの海を見渡す丘の上に鎮座する蛭子(えびす)神社。家室漁師の信仰を集め、出漁した夫の漁の安全を妻たちが祈願する。

蛭子神社には、出稼ぎ漁から無事に戻った漁師たちが船団名を刻んだ寄進が数多く見られる。写真は「伊万里組」による石段の寄進。家室漁師が出稼ぎ漁で各地に痕跡を残していることが分かる。

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