みなべ梅林から南部湾を遠望する。

特集 西日本万葉の旅 紀伊国の海ヘの憧憬

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三名部の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣する海人を 見て帰り来む 作者未詳

南部町の岩代

磐代(いわしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還り見む 有間皇子(巻2ー141) 「旅の無事を祈るという松の枝と枝を引き結び、もしこの願いが叶って無事であったなら、この岩代の松をもう一度見ることができるだろう』 南部町の岩代は悲劇の皇子、有間皇子の「結び松」にちなむ故地。

 三名部の浦とは梅林で知られる現在の南部[みなべ]湾。気候が温暖になるとともに旅も目的地に近づいたせいか、どこか道中にのどかさと余裕が感じられる歌だ。磯で釣りをする人の姿は都人には珍しく、素朴な好奇心からこの歌を詠んでいる。

 鹿島は、南部港の沖合750mほどの海上に今も万葉の行幸時と変わらぬ姿を見せている。古代より神の島と崇められる周囲1.5kmの無人の島で、島には鹿島神社があり、亜熱帯性の植物が繁殖する貴重な島でもある。島までは岩礁が露出して水深は浅そうに見えるが、干潮時であっても歌のように対岸から容易に歩いて渡れそうにない。歌は事実でなく、どうやら創作のようだ。海のない大和人にはそれほど釣り人が好奇に映ったのだろう。

 南部近くの岩代[いわしろ]には、中大兄皇子らとの政争に巻き込まれ、19歳で謀殺された有間皇子の悲劇にちなむ歌枕がある。皇子の死から43年後、持統、文武天皇の行幸に随行した歌人、長忌寸意吉麻呂[ながのいみきおきまろ]は皇子を追慕して「磐代の 崖の松が枝 結びけむ 人は反[かえ]りて また見けむかも」(巻2ー143)と有馬皇子の歌に和して詠んでいる。「岩代の松の枝を結んだ人、有間皇子は紀の湯の帰りに再びこの松を見たであろうか」という意味で、紀勢本線の傍らに結び松の碑が静かにたたずむ。

我が背子が 使来むかと 出立の この松原を 今日か過ぎなむ 作者未詳

白浜温泉の「崎の湯」

大和の都を発して3週間程もかかった長い往時の終点、白浜温泉の「崎の湯」。

持統、文武天皇の行幸の往路を締めくくる一首である。都を発ってずいぶん日が過ぎた。紀伊国の自然に胸おどらせてとうとう出立の松原までやってきた。出立は現在の田辺市西部で、熊野詣が盛んとなる平安期には「出立王子」として登場する。田辺湾を隔てた向こうには旅の目的地である紀の湯が見えている。この歌から、故郷大和とは反対の方向へ行くという、待つ妻への思いと同時に、紀の湯へとはやる作者の気持ちが読み取れないだろうか。

 紀の湯は現在の白浜温泉の「崎の湯」で、田辺湾をかつて牟婁[むろ]湾と称したことから「牟婁の湯」とも呼ばれている。万葉時代から天皇も身体を癒しに通った古湯は、現在も日本を代表する温泉地として多くの観光客が訪れる。崎の湯は黒潮が洗う荒磯にある露天の岩風呂だ。目の前に迫る太平洋は遥か遠くに水平線を描いている。

 歌の作者は、恋しい人を門口で待つといういわれの出立の松原を、待つてくれている人には申し訳ないが、紀の湯に少しでも早く着きたいから「通り過ぎますよ」という内容だとすれば、行幸に随行した者の本音かもしれない。はやる気持ちとは裏を返せば、往路の終わりの安堵感だともとれる。

 こうして紀伊国への行幸のたびに「紀伊万葉」の故地が今に残された。地名にして100余カ所あるといわれる。地名とともに最も多く詠まれたのは、紀伊国の自然を讃美した歌である。

熊野三所神社

白浜の熊野三所神社境内の一画には斉明天皇行幸の史跡碑がある。

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