Blue Signal
July 2007 vol.113 
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特集[近世御城下への旅 彦根] 西国を睨[にら]む井伊家の居城
徳川の威武、彦根山に聳える
守り残された総構[そうがま]えの御城下と井伊家の藩風
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天守最上階からの眺め。西側は琵琶湖が一望できる。
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天守から眺めると、城下のようすが手にとるように分かる。町全体が城郭として防御の備えをもつ「総構え」と呼ばれる造りとなっている。現在の町は城を中心に内堀と中堀の2つが残っているが、藩政時代にはさらに外堀があり、その南側には芹川が防護用の堀の役割を果たし、全体が4つの郭[くるわ]で構成されていた。

第一郭は天守を中心にして藩政を執り行う表御殿や、藩主とその家族の生活の場である奥御殿が置かれた。第二郭は内濠を隔てて家老をはじめ高禄(千石以上)の家臣が邸宅を構えた区域で、内曲輪[うちくるわ]と呼ばれた。第三郭は中堀の外で内町[うちまち]と呼ばれ、中級武士や上層の商人、町人たちの住まいがあった。現在、夢京橋キャッスルロードという名称で町並み整備が行われている地区も内町である。

そして埋め立てられて今はないが、その外側に外堀が巡らされていた。この外堀と芹川に挟まれた区域が第四郭で下級武士や町人が住んだ。外町[そとまち]と呼ばれ、周囲には番所が数多く設けられ人の出入りを厳しく監視した。城への出入りは厳重で『御法度覚書』にも「猥[みだり]に他所の者出入り堅く停止仕まつるべく候事」と定められ、第三郭に多く設けられた寺院群も防御の拠点とした。外敵の攻撃に対しては町全体が城郭として機能し、文字どおり総構えの強固な守りの役を果たす造りになっている。

しかし、難攻不落の備えの彦根城も明治維新にその存亡の危機にさらされた。廃城令で全国の城はことごとく潰され、彦根城も例外ではなかった。堀は埋め立てられて宅地となり、城下の家臣の家々は売りに出された。城内の門や塀の一部も取り壊され、天守も売却が決まっていた。実際に取り壊しの足場が設けられたそうだが、危機を救ったのは彦根城の美しさだった。一説によれば、優美な姿が巡幸中の明治天皇の目にとまり、天守や西の丸三重櫓、天秤櫓などが保存されることになったという。彦根城はそうして明治維新の後、第2次世界大戦の戦禍を免れ、江戸時代と変わらぬ姿で彦根山の山上に聳えている。

そして城下には歴代藩主井伊家が培った気風、藩風が残された。藩祖直政、そして30万石という譜代大名最大の石高にした直孝の誠実、勇猛さは城下に質実剛健の藩風を育み、藩政の良さはよく知られた。大名庭園の名園「楽楽園」の命名には「民の楽を楽しむ」という藩主の思いが込められているという。直興はことに能を嗜み、城内に能舞台を設けて能役者を何人も召し抱えていた。歴代井伊家藩主のなかでも、とりわけ13代藩主井伊直弼[なおすけ]の存在は大きい。「安政の大獄」で苛烈な印象の強い直弼は開国を進め、江戸城桜田門外で浪士の凶刃に倒れるが、武道に優れ学問に秀でた藩主であった。

14男坊だった直弼は当然藩主の世継ぎではなく、部屋住の生活を宿命とする身の上だった。そんな我が身に譬えて直弼は邸を『埋木舎[うもれぎのや]』と命名し、こんな歌を詠んでいる。「世の中をよそに見つつも埋もれ木の 埋もれておらむ心なき身は」。不遇を恨むのでなく、心は決して埋もれてはいまいぞと、直弼は禅を修め文武に励み、諸学芸事を通じて寝る間も惜しんで己を研鑽した。そんな直弼には「チャカポン」という異名があった。茶道、和歌、能(鼓)である。直弼が説く精神の心を要約すると、道というのは「富者、卑賎の違いなく同じく行われ、また共に同じく楽しまるる道なれば…」。それは決して他者を威武するのでなく、志を同じくする者は共に精進しようという心だろう。彦根では今も「チャカポン」と親しみを込めて呼ばれ、茶の湯、和歌、能楽鑑賞が人々の暮らしのなかに息づいている。
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佐和口多聞櫓と中堀を隔てて「埋木舎」がある。井伊直弼が17歳から32歳まで過ごした屋敷。自らの境遇を埋木にたとえ、ここで文武に励んだ。
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表御殿内の能舞台。11代直中が造らせたもので、表御殿の遺構で現存する唯一の建物。能舞台は大大名しか持てなかったといわれ、彦根藩の格式の高さがわかる。
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『御城下惣絵図』。彦根藩の公的絵図として1838(天保7)年に作成された。埋め立てられて今はない外壕と松原内湖の位置がわかる。
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『紙本金地著色風俗図』(国宝)。彦根藩主井伊家に伝来したことから「彦根屏風」とも呼ばれる。近世初期風俗図の代表的な作品。(彦根城博物館蔵)
守り残された総構[そうがま]えの御城下と井伊家の藩風
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築城の際に、防護堤用に河道をつけ替えられた芹川。外縁の堀の役を果たし護岸を守るためにケヤキなどが植えられた。
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城下には現在も藩政時代の商家や町並みが残っている。
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外町には善利組[せりぐみ]足軽屋敷が配置された。屋敷には通行人を監視する連子窓が残る。
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彦根藩13代藩主、井伊直弼。36歳で藩主、44歳で大老職となった。亡くなる46歳までの人生は波瀾万丈だった。(清凉寺蔵)
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