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城づくりを「縄張り」という。家康は彦根城の縄張りに際し、戦略の要地であることから「公儀普請[こうぎふしん]」とした。公儀普請とは幕府の総力で造るという意味で、公儀から3人の普請奉行が派遣され、さらに伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前など7国の大名・旗本に工事を命じている。『井伊家年譜』には「天主台は尾州衆、鐘の丸廊下橋近所、高石垣は越前衆…」と細かく分担が記してあり、彦根城が単に井伊家の居城というだけでなく、西国に対する最前線の拠点として幕府の威武を示して造られたことが分かる。

こんな記録もある。「天守は京極家の大津城の殿守なり」「鐘丸廊下橋多聞櫓は長浜城大手門の由」。あるいは「石垣の石、櫓門等は佐和山、大津、長浜、安土より来る」という記述もある。彦根城は、中世に多く見られる断崖など自然の地形を利用した山城[やまじろ]と違い、急峻な地形の山でなく比較的低い山を選び、尾根を平らに削って周囲に高い石垣を巡らした平山城[ひらやまじろ]である。

彦根城の場合、1期工事では現在の内堀で囲まれた第一郭[くるわ]と呼ばれる区域に本丸天守と鐘の丸だけが造られた。城郭も堀を掘った土を掻き上げて土塁にしただけだった。

城郭が現在のように整うのは、大坂の陣の後である。引き継いだのは、病弱であった直継に代わって彦根藩2代目藩主になった直孝だ。藩祖直政に似て直孝も誠実で胆力のある勇将で、大坂の陣の攻防で大いに奮闘した。18万石だった彦根藩はその軍功で20万石となり、その加勢で休止していた築城工事は1615(元和元)年に再開され一気に進められた。この工事で堀や土居、各櫓が造られ、藩主の居館などの建物が整い、城郭は今日のような姿となる。ここに徳川譜代筆頭、徳川四天王、大老職の格式を有する井伊家の彦根城が西国の諸大名に威武を示すことになる。

彦根道から城内へと至る玄関口ともいえる登城道で、最初に目にするのは美しい白壁の佐和口多聞櫓[さわぐちたもんやぐら]だ。その影を落とす堀は中堀。そこから内堀に出ると、平成の時代になって江戸後期の姿に復元された表門橋が架かる。橋を渡ると藩政時代のままの石段がつづく。石垣が高くそそり立ち、見上げる城郭の美しさはいっそう際立ってくる。長い石段は廊下橋の架かる大きな堀切[ほりきり](空堀)を通って天秤櫓に出る。つづく太鼓丸から太鼓門櫓をくぐり抜けるとと、そこが天守台である。

彦根城の三重三層の天守は真ん中に通し柱がなく、各階を積み上げていく古い構架法が用いられている。平面は通常の正方形でなく長方形をしているのが特徴で、屋根も複雑な構造をしている。切妻破風[きりづまはふ]、千鳥[ちどり]破風、入母屋[いりもや]破風、軒唐[のきから]破風を多様に配し、禅寺に見られる花頭窓[かとうまど]を用いるなど、それらが天守の外観に変化を与えている。最上層の屋根の形は慶長以前の古い様式だ。

内部の造りを注意して見ると、各地からさまざまな大工、職人が集められたために、郷土ごとに異なる技法や、城郭建築や寺社建築の工法、町家や農家の作事の合作となっていることがわかる。自由闊達で大らかな築城工事といえそうだが、実は彦根城の役割上、短期間でより多くの人手を必要としたためだ。

天守最上階からの眺めは、城下を一望する。琵琶湖の対岸は比良山系、北には伊吹山が聳える。そして南には比叡の山を控え、西国に睨みを利かす絶好の位置にある。 |
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彦根城天守(国宝)。大津城の天守を移して建て直したといわれる。一重目の屋根は千鳥破風と切妻破風、二重目は千鳥破風と飾り金具を施した軒唐破風、三重目は入母屋破風に軒唐破風を組み合わせ、瀟洒な天守となっている。 |
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写真右は、二の丸の佐和口多聞櫓と中堀。登城道の正面にある最初の関門。 |
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天秤櫓。右側の石垣は打込ハギ工法で築城時の石垣。左側の石垣は落とし積みで幕末に修理された石垣。 |
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太鼓門櫓は本丸への最後の関門。元々あった岩石を石垣とするなど、地形を巧みに利用した造りとなっている。 |
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『御城内御絵図』。1814(文化11)年に彦根藩普請方によって作成された。内濠以内(第一郭)の城内の配置が詳細に描かれている。(彦根城博物館蔵) |
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天秤櫓と廊下橋。太鼓丸の正面に構えられ、天秤のように見えることから天秤櫓と呼ばれる。しかし実際には、左右対称ではない。右の櫓の屋根は棟入り、左の櫓の屋根は妻入りである。橋の下は深い堀切になっていて、敵の足を止めで周囲から攻撃を加える。 |
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天守最上階の内部。天井は板張りをせず湾曲した荒々しい梁があらわになっている。 |
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梁や構造材は、長浜城や安土城、佐和山城、寺社の古材が転用された。写真は天守2階部分。 |
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復元された表御殿。表の邸は政務を行い、奥が藩主の住まい。現在は彦根城博物館となっている。 |
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内濠に見られる鉢巻(上部)、腰巻(下部)と呼ばれる特徴的な石垣。中間に斜の土居を設けて、敵の侵入を難しくしている。 |
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第一郭の周囲の斜面には堅堀[たてぼり]と登石垣[のぼりいしがき]を5カ所に配している。敵の横移動の動きを鈍らせる工夫だ。 |
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