Blue Signal
November 2004 vol.98 
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特集[倉吉] 伯耆[ほうき]国の中心地、倉吉
繁栄を築いた稲扱千刃[いなこきせんば]と倉吉絣[かすり]
江戸・明治の打吹玉川の町並み
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鍛冶屋町のある八橋[やばせ]往来は、伊能忠敬が測量した街道で、その脇を鉢屋川が流れ、古い町並みの風情がある。
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倉吉は「暮らし良し」が地名の由来だと地元の人はいうのだが、これは今日的な語呂合わせだろう。「蔵屋敷」が「くらやし」に変化して「くらよし」に転化したとする説のほうがやはり信憑性がある。蔵や倉は「富と財」の象徴であり、さぞや豊かで暮らしぶりの良い町であったに違いない。

商工都市として、蔵や倉が建ち並ぶほどに倉吉が大いに発展するのは、江戸の中期から明治にかけてである。それは商品経済の隆盛という時代の気運と重なり、江戸や大坂などの大都市は多量の物資を必要とした。農業生産も著しく拡大した時代で、北前船による海運の起こりとともに物資の流通が全国的に活発となり、米子と並ぶ鳥取藩の経済の中心であった倉吉も、その生産・流通の一端を担うことになるのである。

米や商品を生産し、供給する。需要の増大とともに倉吉は、ますます物資の往来が絶えない交易の中心となる。そして、倉吉の「富と財」を語る上でどうしても欠かせない全国的なヒット商品が誕生する。「稲扱千刃(千歯)」と「倉吉絣」。これらは倉吉の名を全国に知らしめた。

稲扱千刃とは、収穫した稲穂から籾[もみ]粒をしごき取る脱穀のための道具である。櫛の歯のように先が幾つもに分かれているので千刃と呼ばれ、間に稲穂を挟んでぐっと手で引っ張るだけの簡単なものだ。竹製の千歯はもとからあったが、歯の部分を鋼のように頑丈な鉄でつくったのが倉吉の稲扱千刃である。それはほとんど力を入れずにより多くの籾を脱穀できたので非常に重宝され、農作業と生産性をたちまち向上させたという。

「千刃は倉吉」…にはこんな逸話がある。時は元禄の初め、倉吉の左平という男が鉄砲鍛冶を志し泉州・堺に修業に出た。しかし待てよ、平和な時代に鉄砲は無用の長物だ。それより稲扱千刃のほうがよほど有用だ…と、倉吉に戻って稲扱千刃をつくった。鉄製の稲扱千刃は堺などでもつくられていたが、左平がつくる倉吉の千刃のほうが切れ味鋭く、秘伝の油で錆びにくく、たちまち評判になった。

古来、中国山地は良質の鉄がとれ、出雲や伯耆には「鑪[たたら]」という優れた精練法があり、倉吉でも古くから刀剣や農器具をつくる優れた鍛冶職人がいた。当時、彼らが鍛練した千刃は年間5万挺、全国の8割が倉吉の千刃だったという。しかも千刃は地方ごとの気候の違いによる稲穂のでき方に合わせて、刃の隙間の広い狭いを微妙につくり分けていた。

もう一つの倉吉の代名詞である「倉吉絣」も、「丈夫で、洗えば洗うほど美しくなる」と大変な評判を呼んだが、ここにも鮮やかな図柄を織りだす優れた職人の技が見られる。手紡ぎ糸の丈夫さ、素朴だけれど品のある風合い、深みのある藍色をした倉吉絣は商人を通じて大商圏である京・大坂をはじめ全国に販路をもち、高額で取り引きされた。

商人は「倉吉千刃」と「倉吉絣」を同時に扱う者が多く、販路を広げるために富山の薬売りや近江商人のように全国を巡回し、紺の絣を着て天秤棒を担ぎ、千刃を売り歩くことで、一度に二つの注文を受けた。全国的な名声を得たこれらの商品が、倉吉に莫大な富と財を呼び込み、町に繁栄をもたらした。倉の風景は、そんなかつての栄華を物語っている。
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倉吉でつくられた稲扱千刃。稲を扱くには古くから「扱き箸」という青竹を割ったものを使用したが、中国山地の良質な鉄を用いて、元禄の初め頃、倉吉で製造開始された。明治末期から大正にかけて最盛期となり、大正2年の千刃生産数は約10万挺だった。
〈倉吉歴史民俗資料館蔵〉
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上の柄は明治時代に織られた柄で、身近な動植物をモチーフにしている。
繁栄を築いた稲扱千刃[いなこきせんば]と倉吉絣[かすり]
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室町時代から続く刀鍛冶の家系につながる廣吉博司さん73歳。現在倉吉で鍛冶屋を営んでいるのはここ「ひろせや」のみになった。
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洗えば洗うほど美しくなる深みのある藍の色、鮮明な図柄を織り出す技術の高さと、手紡ぎ糸の丈夫さと風合い…3拍子そろった倉吉絣は、弓浜絣、広瀬絣と並ぶ「山陰の三大絣」。
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現在、地元の保存会や織物作家たちが、伝統を受け継ぎながら、新しい絣を開拓している。
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