津和野の鷺舞。毎年夏に行われる弥栄神社「祇園会」の例大祭で舞われる神事。国の重要無形民俗文化財で古式のままに雄雌二羽の鷺が舞う。疫病鎮護と夫婦和合を祈願する舞で、全国から大勢の見物客が訪れる。

特集 津和野今昔 〜百景図を歩く〜〈島根県鹿足郡津和野町〉 百景図に描かれた城下町

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伝統の行事、風物、食、そして人々も百景

百景図第十七図「祇園会鷺舞ひ」
格齋の解説文には、弥栄神社の祭礼は毎年旧暦の6月7日と14日に行われ、御殿前の廣小路では藩主も看楼(物見櫓)から見ていたという。

津和野川のほとり、殿町からほど近くにある弥栄神社は、1528(享禄元)年に吉見正頼が京都の八坂神社から勧請。のちに大火で焼失したが亀井家によって再興された。現在も絵図の通りの姿だ。

百景図第三十六図「鷲原のやつさ」
格齋の説明文を要約すると「二人の農夫がそれぞれ3回ずつ計6回馬に乗って矢を射った。この日は藩主の上覧があった」と記している。

 格齋は百景図のほかに、藩政期の津和野市街絵図も描いている。現在の町割りもほぼ変わらない。百景図も多くが残っていて、第一図は、やはり津和野のシンボルである三本松城(津和野城)から始まる。

 百景全てを取り上げるのは紙面の都合で困難だが、百景図を片手に格齋が描く津和野を巡ってみよう。まずは山上の城を出て、城山の麓の御殿(侯館)へと赴き、庭園を描く。それから弥栄[やさか]神社で祇園会を、そして津和野川に架かる大橋を渡り、殿町から亀井家菩提寺の名刹永明寺[ようめいじ]を描く。

 格齋は次に南へと足を運ぶ。現在の市街の西の端にあたる鷲原[わしはら]などへ錦川を遡って歩く。再び津和野の市街に戻って青野山。格齋の足はそこから北へと向かう。隣の集落、日原付近で名を変えて日本海に注ぐ高津川に沿って、津和野藩領の北端、益田に至る。どれもほのぼのした筆使いで、津和野に寄せる格齋の愛おしさが伝わってくる。

 題材には景画が多いが、百景図には津和野に永く受け継がれてきた伝統行事も描かれる。津和野大橋近くの弥栄神社の境内で行われる「鷺[さぎ]舞」は、百景図では「祇園会鷺舞ひ」として描いている。国の重要無形民俗文化財の「鷺舞」はおよそ470年前に京都から山口を経由して津和野に伝わり、津和野の人々が大切に守り続ける日本の代表的な伝統芸能だ。

 雄雌二羽の白鷺に扮した舞い手が、神輿に付き従って町内の辻々で「かーわ ささ〜ぎ〜の」と抑揚のついた囃子に合わせて優雅に舞う。一時は絶えた舞を亀井氏が藩主になって再興したという「祇園会鷺舞ひ」は、囃子方の表情も描かれ、舞い手の動きもよく分かる。百景図に描かれたこの図は今日のそれと同じ光景だ。

 津和野城の鎮守社である「鷲原八幡宮」で毎年4月に披露される「流鏑馬神事[やぶさめしんじ]」は、百景図第三十六図「鷲原のやつさ」に描かれる。やつさとは流鏑馬のことをいう。流鏑馬は城下町の歴史と文化を伝える行事で鎌倉時代からの古式に則って行われる。疾走する馬上から弓を放つ雄々しい姿は、臨場感たっぷりに「鷲原のやつさ」に描かれている。

毎年4月に行われる「鷲原八幡宮」の流鏑馬神事は五穀豊穣と天下泰平を祈願する。疾走する馬上から弓を射る勇壮な神事だ。この馬場は日本古来の流鏑馬の馬場の原型を残している唯一のもの。1万人以上の人が全国から訪れる。

津和野の夏の味覚は鮎、冬は猪鍋だ。津和野では鍋の底に味噌を敷いて出汁を入れず、すき焼き風に炊く。

百景図第八十五図「吉賀の猪」
格齋は「吉賀は山奥で猪が多く生息していた。雪の深い冬は食を求めて里近くまで出てくるので、里人は槍や鉄砲で猟獲していた」と説明文を添えている。

百景図第百図「主候の遠馬」
11代藩主・茲監は夏の夕刻に、思い立ってしばしば遠乗りに出かけた。殿を追いかける共回り。坊主頭は御数寄屋番でもあった若き日の格齋だといわれる。

 延長およそ250mの馬場は鎌倉時代に整備されたとされ、学術的にも貴重なものである。鷺舞も流鏑馬もともに百景図そのままに津和野の文化を伝えている。そういう歴史と伝統を支える人々と、それを実行する仕組みも含めて日本遺産なのだろう。

 百景図には現在の観光スポットでない場所が少なくない。百景図第六十図「野坂」の峠は山口県との県境で、東京に赴く森おう外も通った道だ。おう外はその著書『ヰタ・セクスアリス』に自宅付近や、藩校への通学路の様子や盆踊りの雰囲気を書いているが、それと同じような情景として百景図に残されていることはとても貴重なことだ。

 藩侯の鴨猟や御猟場の図、藩候の参詣行列の図、鷲原愛宕神社の大杉、高田の山のほととぎす、七曲りの釣り魚という図もある。百景図第八十五図「吉賀[よしか]の猪」では伐[う]たれて倒れた猪を描いている。山奥の吉賀には猪が多く、津和野の冬の味覚の代表はすき焼き風の猪鍋だ。百景図第八十六図は「左鎧[さぶみ]の香魚」、そして百景図の最後は「主候の遠馬」。

 馬の遠乗りに出かけた11代藩主茲監の後を、駆け足で追いすがる人物を描いたユーモラスな図。実はこの人物が百景図を描いた格齋本人だといわれる。いずれにしても百景図を携えて津和野を歩けば、これまでと違う津和野と出会うに違いない。誰もの故郷のように懐かしい津和野。ふと見上げると青野山が語りかけるように堂々と座していた。

百景図第二十六図「殿町総門」

 津和野の中心、殿町通り。藩政期の面影を色濃く残す町の佇まいは津和野を代表する風景で、かつては家老など重臣の屋敷が居並んでいた。通りの先は町方が暮らす本町。殿町は城内の北の境界で2つの町を仕切る総門があった。現在は永明寺(ようめいじ)の表門として移築されている。

百景図第八十図「妹山の景」

 太皷谷稲成神社から眺めた津和野の町。正面奥の饅頭のような山は青野山で、町のどこからでも見ることができる。優しい容姿から、妹山(いもやま)とも呼ばれ、『万葉集』にも歌われた津和野のシンボルだ。

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